2017年09月21日

『聖トマス・アクィナスと世界国家』を読んで...

北朝鮮のミサイル発射問題とそれに反発したアメリカの反応により日本の安全が脅かされ、国連の安全保障理事会決議も有効でないような今の状況...

単なるいち市民に過ぎない私たちには、平和と安全をひたすら祈念するしかないですね...

そんな中、やや古い本ですが、図書館で借りて『聖トマス・アクィナスと世界国家』を読みました。

聖トマス・アクィナスと世界国家 (1984年) (フィロソフィア双書〈8〉) -
聖トマス・アクィナスと世界国家 (1984年) (フィロソフィア双書〈8〉) -

著者はロバート・ハッチンスというアメリカ人の学者さんでして、シカゴ大学の学長まで務められた名士です。

リベラルアーツ教育の重要性と生涯教育の推進に取り組み、核兵器にも第二次世界大戦後早々から反対し続けられました。

同時に、戦争をなくすために世界政府を提唱...

この著作は、そんなハッチンス氏の思想の中心となる、「対話と同意による主権の譲渡」をまとめた40頁弱の短い文章です。

その後に、訳者の解説文がほぼ同じ分量(40頁弱)、付いております。

内容としては、この世から争いをなくすためには、対話,教育による啓蒙,粘り強い漸進的取り組みが必要だということ。

その理由づけとして、中世カトリックの著名な神学者トマス・アクィナスをふまえつつ、国家の本質とは何か?、その目的は?、などを論じ、さらに、ありうべき世界政府のデザインを描いています。

ある意味宗教的ですが、この著の本質はそこにあるのではなく、古代ギリシア哲学〜中世のカトリック神学の知的遺産を活用し、過去の人間の歴史のダークな部分を含めた分析と今後に対するポジティブな提案をしているところにあります。

なお、カトリック神学というと、保守的だとか宗教的だとかいったイメージを抱いている方もいるかもしれませんが、トマス・アクィナスは、キリスト教以前の時代の人物であるアリストテレスの哲学を使って理論構築をし、生存当時は異端の嫌疑さえかけられた危険な思想家とみなされたような学者でした。

以下、引用です...

トマスは西欧中世を代表する思想家であり、カトリックのもっとも正統的な神学者であると一般に認められている。しかし、かれが生き、思索していた当の時代では、かれは必ずしもそのような位置や評価を与えられていたわけではなかった。ここがしばしば大いに誤解のあるところだが、同時代の神学者たちや教会の当局者たちからはむしろ異端のおそれを感じさせる危険な思想家とさえ見なされていたのである。


このように宗教の教義にとらわれない思索による聖トマスの知的結論は、国家とはその構成員に福祉と安全を提供し、共通善を増進すべくあるのだということです。

再び、引用です...

アリストテレスは『政治学』のなかで、次のようにいっている。「だから、共同体はいずれもある種の善きものを目ざしているが、わけてもそれらの生活のうち至高で、残りのものをことごとく包括している共同体は、[その他の共同体に比べて]最も熱心に善きものを、しかも凡ての善きもののうちの至高のものを目ざしていることは明らかである」。


ギリシアの政治理論の伝統にあっては、国家の目的は善き生活を推進し、市民を訓育して真に正しく有徳な人間に完成させることであった。政治はその意味で創造的、全体的な営みであり、人間の究極目的そのものであったといってよい。


トマスはアリストテレスを踏襲して、国家が人間にとって自然的なものであり、「家族」や「村落」を凌駕して「完全共同体」(communitas perfecta)であると主張したが、その国家の目的はかれによれば、「共通善」(bonum commune)の実現であった。そして、この「共通善」とは単に「世俗的・物質的福祉」ばかりでなく、「徳にしたがう善き生活」でもあった。


”国家”とは何かを語った次には、”人”とは何か?、その”人”が集うところに生じる”政治”とは何か?、について語られます...

アリストテレスは人間を、「共同することができない」野獣でもなく、さりとて「共同することを少しも必要としない」神でもない存在、すなわちまさに「共同すること」をその本性とする存在と考えている。そして、この共同存在としての人間という規定に、かれはさらに「言葉をもっている存在」という第二の規定を付け加えている。


すべてが「言葉」という非「暴力」によって解決される社会現象がすぐれて〈政治〉なのであり、逆に「言葉」を失った沈黙の状態は本来の〈政治〉の姿ではないということになる。


「権力」は確かに政治の世界において問題解決の究極的な要素であるとしても、それはどこまでも〈政治〉の最後の切札―ultima ratio―にすぎないのであって、ひとたびそれが現実に行使される状況(暴力状況)にたちいたったときには、本来の〈政治〉的解決が実は限界点に到達したことを暴露している。それはむしろ〈軍事〉の領域というべきであって、そんなところに〈政治〉はいささかも存在しないのである。


”人”とは共同生活を行うものであり、その共同生活を円滑に行うには話し合うことが最も文明的な解決方法なのだ...

それが平和をもたらすのだ...

そして、”平和”とは、ただ単に外国から侵略されない状態だけを指すのではなく、福祉も含めたものである...

聖トマス・アクィナスはそう語ります...

『マタイ福音書註解』のなかで、聖トマスは次のように続ける。
「生命が人間に必要であるように、平和が王国には必要である。……(中略)…… 健康が崩れるとき人間は死に向かうように、平和が崩れるとき王国は死に向かう。したがって、究極的に求められねばならぬものは平和である」。


平和を完全共同体の特徴として注目していることは『君主政治論』(De Reginine Principum)のなかでもまた顕著に見られるが、そこで聖トマスはこういっている。「社会を形成している多数者の福祉と安全はその社会の統一と保持であり、それは平和と呼ばれる。そして、それが取り除かれると、社会生活の恩恵は失われ、さらに統一を失った多数者は社会それ自身にとっても重荷となる」。


この理論を世界に広げたとき、その結論はこうなります。

国家が完全性であるかどうかは、人間の結合の目的―すなわち共通善に対して、それが充分に適切であるかどうか、にかかっている。共同体が完全なものである、ということは、それが完全に閉ざされたものである、ということを意味するのではない。それが意味しているのは、共同体が同じような種類の他の共同体と自由に関係をもつことができるという権利があるということ、そしてそうした関係をもつことを強制されるのは正当なことではありえない、ということである。国家が主権に対する自然的権利をもっている、という言説の起源と意味はそれゆえ、ある国家が他の国家に対して自己の意志を強制的に押しつけることはできない、ということである。


世界政府は征服によってではなく、同意によって存立しなければならない、ということである。


平和は慈愛と正義の仕事、すなわち直接的には慈愛の、間接的には正義の、仕事である、と聖トマスはいった。宗教と教会の仕事は慈愛である。国家と政府の仕事は正義である。教会と国家―普遍的教会と世界国家―は人間の同胞性を実現する普遍的な慈愛と、全人類に正義をもたらす普遍的なデモクラシーに基盤づけられた世界平和のために、いまや一致協力しなければならない。


われわれの時代においてどんな世界国家が組織されようとも、そのなかでは、ヨーロッパすなわち西欧とキリスト教圏は数において圧倒されてしまうであろう。だからといって、西欧はその文明のなかで善であった一切のものが秩序正しく維持される世界のなかで正当な評価を見いだしているという自信を欠くべきではないように思われる。西欧は世界のなかにあっても、それ自身の善性を再発見できよう。


ここには、必ずしも西欧文明賛美というのではなしに、人権や民主主義や博愛の精神といった価値観を守り発展させていくために、やっぱり西欧が世界を主導していくのがベターだということが、古代ギリシア思想〜キリスト教が育んできた隣人愛や人権尊重の歴史をふまえて提唱されている、と思いました。

それにしても、人間というものは、古代からあまり進歩がない...

古代〜中世の賢人の思想がいまでも通用するなんてのは、その証拠ですね...








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2017年09月20日

うたコンに行ってきました(9/19編)

昨日は2週連続でNHK『うたコン』の公開生放送に行ってきました。

席は3階の真ん中あたりでしたが、上から見おろす形で、結構、見通しは良かったです。

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今回は加山雄三さん、森進一さんなどが、昭和の歌を歌ってくれました。

『東京砂漠』に『君といつまでも』,『オラ東京さいぐだ』などが聞けました。

もちろん、いつもの通り無料(タダ)なので、とてもお得な気分...

なお、時間の都合で夕食を摂らずにNHKホールへ急いだので、中でサンドウィッチを買いました。

utacon3.jpg

実は、NHKホールでは、中に売店コーナーがあって、サンドウィッチなどの軽食やおみやげなどを売ってるんですね。

公演が始まる前までにちょっと時間があった(15〜20分くらい)ので、カバンの中にあらかじめ買って持っていたドリンクとで腹ごしらえ。

サンドウィッチは¥500円と高かったけど、お腹が空いていてちょっと辛かったし、いつもタダでコンサートを見せてもらっているし、ソンはないな、と思ったので買いました。

やはり、お金というものは使ってこそ値打ちが出るものだと思います...

また、使いながらいろいろと経験を積むことも人生勉強のうちのひとつ。

今回の評価としては、そもそも無料の公開生放送なので、営利目的ではなくて、今回の私のようにお腹を空かせた人向けのサービスが主眼であろう...

市場価格よりも高い¥500円というのは、もろもろの経費的にそういう設定になってしまうんだろうな、的に分析しました。







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2017年09月19日

オレのものはオレのものか?(所有権をめぐる比較文化論)

内容的には昨日の記事の続き的な感じです...


漫画・アニメ『ドラえもん』で、ジャイアンが言う有名なセリフがありますよね。

「のび太のものはオレのもの、オレのものはオレのもの」

誰が聞いても、これはあまりにも不公平だということは誰にでもわかる...

普通は「のび太のものはのび太のもの、オレのものはオレのもの」です。

いわゆる、どこの国でも認められている「所有権」というやつです。

でも、ちょっと考えてみてください...

「所有権」の根拠って何ですか?

まあ、古来からの”慣習”としかいえないですけど、学問的(哲学的,社会学的,歴史学的あるいは宗教学的)に突きつめれば、いろんな考え方ができる。

中学・高校の教科書で習う、”社会契約説”だと、人間は文明を始めた頃に互いに契約を(取り決めを)結び、お互いを侵害しないという平和協定を結んだのだ、ということになります。

その平和協定の結果、互いの所有物を侵害しないということになった、というわけです。

また、キリスト教思想だと、カトリック神学なら、”自然法”(=大自然のルール,掟)を根拠とします。(なお、自然と自然法は神が創造された、と考えます)

プロテスタントなら、”神”が所有権を人に直接与えた、とされます。

アメリカの独立宣言なんかにはそう書かれています...

いずれにしろ、欧米人の頭の奥底には、「のび太のものは神のもの、オレのものも神のもの」という考え方がある...

そして、現在の世界諸国の憲法や民法をはじめとする基本法規は、この欧米人の思想を起源としています。

なぜなら、欧米の植民地から独立した国々はもちろんのこと、欧米の植民地にならなかった日本などでも、欧米の法をベースに近代法を作ったからです。

明治維新後、日本はそれまでの法を捨て、フランスやドイツの法律をベースに民法や商法を制定しました。

戦後は、日本国憲法がアメリカ占領軍(GHQ)の草案から作られました。

法思想や法哲学という、法律を形づくる根底にある思想や哲学をテーマとする研究分野がありますが、そこで語られるのはキリスト教思想と古代ローマの万民法や市民法です。

古代ローマ帝国も、後半期はキリスト教を国教としましたし、前半期に流行ったギリシャ哲学は逆にキリスト教思想に影響を与えたとされている...

結局、現代の法律で定められている所有権を始めとする様々な権利義務は、古代ギリシャ・ローマの社会常識とキリスト教思想に行き着くようです。

何が言いたいのかというと、日本では、「オレのものはオレのもの」と考えて、そこで思考停止(というか、思考完了)となるのに対し、欧米社会では、「オレのものは今は一時的にオレのものだけど、究極的には神のもの」と考えて、社会への還元や貧困者への援助という論理へとつながってゆく。

すべての人がそうだというわけじゃないけど、まだまだマジメに(というか敬虔に)生きている人はいっぱいいる。

だから、死ぬまでにできるだけ稼ぐとともに、あわせてたくさん寄付や援助をしようと考える...

そうすることが天国へ行く道だと思考するからです。

旧約聖書の創造記にいう「あなたは塵から生まれ、塵にかえる...」,新約聖書のルカ福音書にいう「富は天に積みなさい」、ということですね。

死んだら塵に返るだけ、必要以上の富を蓄えても天国には持ってゆけない、死ぬまでのあいだにできる限り善行を積みなさい、という教えです。

東洋思想でいうなら、”功徳を積む”という意味に近いでしょうか...

日本でも、江戸時代に公共の便のために淀屋橋を作った豪商や、明治時代に中之島公会堂を作って寄付した富豪がいましたが、今はめったにいなくなりました。

昔と比べて、今の日本人は、富に執着するようになったのかな、と感じます。

マネー系のブログでも、節約や保守的思考な投資(インデックス積立)をテーマとするブログが多い(苦笑)...

大胆に投資を実行して、それで成功を披露するというブログは数少ない...

残念ながら...

そして、こういふうに、富への執着心が強いと、貯蓄率が高くなり、金回りも悪くなり、景気は上がっていかないのかなとも思います。

いったん握ったカネは離さない、という考え方になってしまいますからね...

アメリカ社会が日本よりも活気にあふれ、失敗に寛容で、巨額の寄付や善意の出資(エンジェル投資家など)が多いのは、日本と違って、「のび太のものは神のもの、オレのものも神のもの」という考え方をする人が多いから...

そう考えることによって、富への執着心が薄れ、善意の使い方をしがちになるから...

私はそのように思います...








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