2015年08月09日

改めて東芝不祥事から思う「会計の原点」について...(後編)

昨日からの続きの記事となります...

今日は数か月前に読んだ本の紹介をしたいと思います。

その本は、ジェイコブ・ソール著『帳簿の世界史』(文藝春秋)です。

ごく最近、刊行されたものですから、入手は容易です。

帳簿の世界史 -
帳簿の世界史 -


大学を卒業し、社会人になってからも、私は会計関連の書籍はときどき読んでおります。

会社から命じられている仕事は違えど、本来の専門分野ですからね...

昨日紹介した書籍も含め、せっかくの盆休みなので、投資家の皆さんはこういった固い本を読んでみてもいいのではないでしょうか。

さて、この本の中では、会計の歴史についていろいろと語られているわけですが、なかでも興味深いのは、”複式簿記”の誕生についての推理です。

現在、通常の一般企業では、単式簿記ではなく、必ず複式簿記が使われているわけですが、これは人類最大の発明だと賞賛する有識者もいます。

それは、かの有名な文豪ゲーテです。

彼は、『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』(岩波文庫)の中で、こう言っています。

『真の商人の精神ほど広い精神、広くなくてはならない精神を、ぼくはほかに知らないね。商売をやってゆくのに、広い視野をあたえてくれるのは、複式簿記による整理だ。整理されていればいつでも全体が見渡される。細かしいことでまごまごする必要がなくなる。複式簿記が商人にあたえてくれる利益は計り知れないほどだ。人間の精神が産んだ最高の発明の一つだね。立派な経営者は誰でも、経営に複式簿記を取り入れるべきなんだ』

そんなユニークでかつ素晴らしい発明品である複式簿記ですが、ひょっとしたらキリスト教の教義から生まれ、そして発展したのではないかという推論が、上記の著作の著者の主張です。

以下、引用です。

『富と信心の両方を追求する中世の商人にとって、利益は悩ましい問題であった』
『中世の銀行家や商人には罪の意識がまとわりついていた』
『なにしろ当時は、金を扱う職業や会計慣行の大半は教会法に反していたからである』

人はパンのみにて生きるにあらず、と清貧を説くキリスト教は、金儲けを悪いこととしていました。

よって、中世ヨーロッパのキリスト教徒のビジネスマンは、神に対する心の負い目を感じ、それを一種の負債(「心の会計」としての負債)として認識していたようです。

『大方のキリスト教徒にとって、善行と悔悛に加えてキリストの血の代償によって罪を帳消しにでき、死後に煉獄であまり苦しまずに済むという教えは、会計の概念と接した初めての経験だったと言えるだろう。心の会計の借方と貸方と差引残高は、救済を得るために欠かせない』

『帳簿一式が事業別に作成され、最初のページには必ず「父と子と聖霊とすべての聖人、天使の名において」という宗教的な決まり文句が記されている。あるいは商人にふさわしく「神と利益の名において」と書かれていることもあった』

『ダティーニの帳簿の収支尻がつねに黒字であることは、神に対する負い目は増える一方であることを意味した。つまり帳簿は、利益を示すと同時に、罪の償いとして神に払うべきものも示したといえる』

『最後の審判を恐れるその信仰心こそが、会計を発展させたのだ』

つまり、金儲けが成功すればするほど、世俗的な罪は増えていく...

だから、死ぬ際には、”黒字”になった分だけ、その罪を、同等の善行で返さなくてはならない(帳消しにしなくてはならない)...

そのためには、会計帳簿をきちんとつけることで正確な黒字額を把握し、死後、教会に寄進する等、しなければならない...

敬虔な人ほど、そう考えていたそうです。

ダティーニというそのイタリア商人は、きちんと会計帳簿をつけ(現在も記録が残っているそう)、死後、プラート市の教会に一〇万フローリンが寄進されたとのことです。







posted by スイス鉄道のように at 07:00| 東京 ☁| Comment(0) | 投資哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

にほんブログ村