2015年09月21日

星の王子さま評論の紹介(続々編:命・生きることについて)

今日は、童話『星の王子さま』の解説書『大切なものは目に見えない』から、”命”と”死”、そして、生きることの意味について評論している箇所を紹介したいと思います。

物語の最後で星の王子さまは、砂漠の中で黄色いヘビにかまれて死にます...

なぜ、そういうストーリーになっているのでしょうか?

それは、”死”というものに真正面から向き合うことによって、人は、”命”,そして、”生きること”の意味に本当に気づくからというのです...

しかし、この童話の中での”死”は、普通の”死”ではありません...

舞台は、”砂漠の中”です...

”砂漠の中”という過酷な環境の中で死ぬことこそ、本当の大事なものに気づくきっかけを与えると言うのです...

例によって、解説書から引用してみましょう。

私たちは、流行の「風」の吹くままに、ふらふらとあちらこちらへつき動かされがちではないでしょうか。
自己を支える確固たる基盤を欠くゆえに、かえってみずからの意志にもとづいて生きる主体的自由を失うのです。


砂漠の中では、飲み水もなくなる極限状況に立ちいたると、それまで人間社会で身につけていたいっさいの上べに付着したもの、地位、名誉、財産といった余計な肥大物が取り去られてしまうのです。ものの真の価値について、また人間はなぜ生きるのかということについて、真剣に考えるようにさせられるのです。


通常の日常生活における他人との関わり合いの中では、周囲に流されるままに、なんとなく日々を生きてしまう...

それが、”周り”というものを取り去った時に、”命”というものに気づくというのです...

”砂漠”というのは、”周り”を取り去った環境を象徴しているというわけです。

引用を続けましょう...

生の極限状況の中で、私たちのこころの内部に涸れることのない生命の泉が開かれるのです。


人生の荒野をさまよいながら、私たちの救いにとって必要とするのは、この《生命の泉》を見つけることではないでしょうか。


私たちは、人生の荒野の中を生きていかねばなりません。
しかし、その砂漠のどこかに隠されている目に見えないこころの泉の存在を信ずることによって、この荒れはてた砂漠を踏破していくことも可能となるのです。


要するに、普段頼っているもの、寄りかかっているもの、頼らせているもの、そういうものを一切取り払ったとき、人は本来の自己に目ざめ、生きる目的を求める...

そして、求めて,求めて,求め続けた末に、人は「大切なもの」を見つけることでしょう。

この、「人が求め続けた末にたどりつく、目に見えない大切なもの」が、”砂漠の中のオアシス”にある、 ”目に見えないこころの泉”にたとえられているわけです。


しかし、砂漠にはオアシスがあるだけではありません...

砂漠には、”死”も潜んでいます...

人は一人では生きられないとよく言いますが、まさにその通りで、衣食住の不安定さや孤独感による自殺衝動などにより、物理的にも・精神的にも、人は一人だと死にやすくなるものです。

解説書を読み続けましょう...

砂漠の中にひそむ《黄色いヘビ》―これは毒蛇です―は、私たちの人生にとって死が不可避であることを教えているのです。


《黄色いヘビ》は、私たちに死の悲しみと痛みとをもたらすものです。
しかし、それのみでなく、いっそう深い別の真実をも教えてくれるのです。
それは、この生の有限性をともなう世界においては、いかなるものも、けっして当然自明な存在ではありえないということです。


死によって限定されていることを知るとき、現に生きているということが、私たちにとって、いかに必然性に乏しいものであるかという事実が明らかになります。
まさにそのことによって、これまで私たちが当然自明のもののように、なげやりに見てきたすべてのものが、驚くべき濃密性を獲得します。
一回限りの《かけがえのない》ものとしての性質を取り戻すのです。


その毒によって死をもたらすヘビは、ある意味で、新しい始まりと更新とを象徴するものです。


人は、自分がいつ死ぬかわからないという事に気づいたとき、普段なにげなく目にしていたもののすべてが貴重なものに思えるのです。

そのとき、自分を取り巻く世界が変わる...
変わって見えるようになる...

つまり、そのときから”世界観”が変わるのです...

・・・

”死”と”復活”...
その過程で生じる意識の変化...

作者のサン・テグジュベリは、やはりフランス人であり、キリスト教徒です...

キリスト教の教義をふまえて、この本のストーリー、そして主題を描いているようです...

しかし、クリスチャンではない人にとっても参考になるはずです。

私は、『葉隠』にある有名な一節、「武士道とは死ぬことと見つけたり」を連想しました。

欧米社会に「武士道」という考え方を紹介した新渡戸稲造もクリスチャンでしたが、相通ずるものがあるのだと思います。

さて、要点を以下にまとめてみましょう...


死んだつもりになってみる...

何がほんとうに自分の求めるものであるかが見えてくる...
また、死ぬ前にやっておきたいことが見えてくる...

死んだつもりで思い切って行動する。
しかし、キリスト教精神を(≒モラルを)保持したままで。

他人の目など気にならなくなる...
しかし、人としての道をふみはずして行動しているわけではない...

このように生きていくべきだ...

作者が言わんとしているところは、こういうことのようです。

解説書は次のように締めくくっています...

神にたいする信頼において人間の不安や恐れに打ちかったもの、それゆえに、素直にこころの真実と優しさとにたいして感受性をもつ人は《子ども》です。
自分の人生を父なる神の愛に全面的に委ねて生きることのできる人は《神の子》なのです。


《祈るもの》は、すべての存在の根拠として、《神》が私たちの人生に《大いなる平安》を約束し、私たちの立つ歴史的地平を支え導いていることを知らされるのです。
こころの目を開いて見るとき、私たちは、この広大なこころの王国を満たす《神》の大いなる恵みにたいして根源的信頼をあたえられるのではないでしょうか。






大切なものは目に見えない―『星の王子さま』を読む (岩波ブックレット (No.387)) -
大切なものは目に見えない―『星の王子さま』を読む (岩波ブックレット (No.387)) -



posted by スイス鉄道のように at 07:00| 東京 ☁| Comment(0) | 気づき・ヒント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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