2016年05月06日

『神からの借財人コジモ・デ・メディチ』の紹介...

4月30日に『メディチ家の至宝展』の記事を書きましたが、この展示会は7月5日まで行われています。

なので急いで行く必要はないのですが、展示開始(4月22日)から間もない29日に行く気になったのは、この少し前に『神からの借財人コジモ・デ・メディチ』という本を読んでいたためです...

神からの借財人 コジモ・デ・メディチ: 十五世紀フィレンツェにおける一事業家の成功と罪 -
神からの借財人 コジモ・デ・メディチ: 十五世紀フィレンツェにおける一事業家の成功と罪 -


この本は通常の歴史書とは異なり、中世ヨーロッパの大商人たちの心の内面に光を当てています。

キリスト教思想が強かった中世ヨーロッパでは、利子を取ることは元々は禁止されていました。

理由としては、まず単純には、聖書の記述から導かれます。

高利貸しはまったく労することなく、眠っている間にさえ、利益を上げようとする。
それは、額に汗して、なんじは糧を得ん(『創世記』三:一九)と仰せになった主の掟に背くことである。


要するに、汗を流さないとお金を得てはならないという考え方です。

しかし、神学者たち(『神学大全』を著したトマス・アクィナスなど)はもっと精緻な理論を構築していたようです。

『神学大全 第一八冊』
貸した金のゆえに利子[usura]を受け取ることは、それ自体において不正なことである。なぜなら、存在しないところのものが売られるからであり、それによって明白に、正義に反対・対立するところの、不均等が成立するからである。このことをあきらかにするためには、何らかの事物については、それを使用(usus)とは、当の事物そのものを消費(comsumtio)することである、ということを知らねばならない。たとえば、われわれは酒を飲物として使用することによってそれを消費するのであり、また麦を食物として使用することによってそれを消費する。……このことゆえに、こうしたものにおいては貸借によって所有権(dominium)も[貸し手から借り手に]移譲されるのである。それゆえに、もし誰かが酒と酒の使用を別々に売ろうと欲するならば、かれは同じものを二度売ることになろう


金を貸す行為のような「消費貸借」は、いったん所有権が相手に移転するというのが昔の法思想だったようですね。
さしずめ、今の法律用語で言うと、”取戻権付き所有権移転”というところでしょうか。

また、こうも考えられていたようです...

高利貸しは債務者に自分の持ち物は何ひとつ売らず、ただ神の持ち物、時間を売る。
ひとの物を売るのだから、そこからいかなる利も得てはならない。


「時間は神のもの」だということですね...

だから人間は、”時間”を利用して、そこから利を得てはならないということです...

余談ですが、ここから言えば、現在の「ドルコスト平均法」なども違法、いや罪だということになりましょうか...

ただし、リスクを取って危険を負担するなら、その際に、保険的な意味としての補償を求めることは正当なものとされます。

以下も引用です...

貸与したもの、あるいは元金の返済とは別に何がしかの支払いを借り手に求めることが不当とはいえない事由がないかどうか、その吟味が、十二世紀から十四世紀にかけて行われていく。やがて、いくつかの事由がある場合、別途の支払いがウスラないし利子としてではなく、なされてしかるべき補償(interesse)として容認されるにいたる。


現代イタリア語のinteresseや英語のinterestは利子を意味するが、スコラ学や教会法においては一貫して補償と解されたのであり、usuraと混同されてはならない。


『神学大全 第一八冊』
貸手は、罪を犯すことなしに、借手との間で、自分が当然持つべきものに関して被った損失の返済を契約にもりこむことができる。けだし、これは金の使用を売ることではなく、損失を回避することだから


なぜこのような考え方が出てきたのかというと、キリスト教徒の共同体は互いを兄弟と呼ぶ団体ないし結社であって、兄弟が苦楽を共にして何かを為すことは肯定されたからということです。

メディチもそのひとつであったような事業が数多くあらわれた時代にイタリアの諸都市で組まれていたパートナーシップにはいくつかの形があり、それぞれに別個の呼称が用いられていたようである。けれども、本書ではそれらを包括してソキエタスと呼ぶことにしたい。


トマスの理解には先に触れた理念、つまり、ソキエタスの根幹をなすのは兄弟的結合だとする理念が反映されているということもできよう。


フィレンツェのような内陸の都市では、より長い期間、たとえば数年にわたって存続するという前提で組まれたパートナーシップの下で商取引やものの製造が営まれることが多く行われたという。コンパーニア(compagnia)と呼ばれるパートナーシップがそれである。このコンパーニアは、もともとはひとつの家族内で、つまり、父と息子、あるいは兄と弟によって組まれていたが、やがて、事業に貢献すると期待される人物を家族の外からパートナーとして招じ入れるようにもなったという。


適当なだれかとソキエタスを、あるいはパートナーシップを組み、そのパートナーに資金の使用を委ねて交易を営むとき、利益の分配を求めるのは不当なことではないと述べられている。それは、出資した資金の所有権はそのひとに帰属しつづけ、したがって先に使用貸借について指摘したように、自らの所有になるものの使用について対価を求めるのは不当ではないからである。そのうえ、商取引一般、とりわけ遠隔地交易には種々の危険が伴う。つまり、ソキエタスないしパートナーシップへの出資は、自身の所有する資金を危険にさらすことでもあり、利益の分配にあずかることはそのことへの報奨という意味でも不当ではない。


貧しい隣人や同胞の苦しみをともに分かち合うよううながす兄弟結社の成員としてのひととひとの結ばれ方は、金品の貸与だけでなく共同して事業に関わる当事者間にあっても保たれねばならないと説かれつづけた。



こうしてみると、今の資本主義社会の仕組みが長い時間をかけてヨーロッパで形成されてきたのだということが分かります...

また、会社(カンパニー)の語源がコンパーニアであること,英語のinterestは元々利子を意味するのではなく「危険(リスク)に対する補償」という意味だったこと,使用(use)や消費(consume)や支配(domination)の語源がラテン語(usus,comsumtio,dominium)であることなども分かります。

勉強になりますね...






posted by スイス鉄道のように at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | 気づき・ヒント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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