2017年07月01日

『林原家 ―同族経営への警鐘―』を読んで...

『林原家 ―同族経営への警鐘―』を読みました。

岡山県にあった同族経営の会社の破たん劇の裏側を描いた、元社長みずから書かれた一冊です。

林原家 同族経営への警鐘 -
林原家 同族経営への警鐘 -

株式会社林原は、はるか昔にさかのぼれば、大名池田家に仕え、士分を捨てた御用商人にルーツがあります。

長男至上主義のもとスパルタ教育で男子を育て、家を継がせるという、今は珍しくなった古き日本の一族という感じ...

明治時代に水飴の製造販売を始め、戦後の貧しい世相の中に起こった甘味料ブームに乗って発展します。

不動産投資、キャラメルメーカー(カバヤ)の設立、M&A、などで地方財閥化。

さらには、美術館・博物館建設、チンパンジー等類人猿の研究所設立、岡山の歴史資料や骨董品収集(岡山城の堀あとも買収し、のちに寄贈もします)なども社長家は行い、地元の名士となります。

しかし、2011年、粉飾決算がバレて金融機関が騒ぎ、ついには会社更生法の適用となり、林原家は経営陣から退き、長瀬産業の子会社となりました。

波乱万丈という感じですね...

というわけで、内容はとても面白いです。

一読の価値はありますよ...

面白そうな箇所を引用しつつ、この会社が辿った経緯を描いてみましょう...


小さな飴屋だった林原商店は、克太郎から息子の保次郎、そして孫の一郎へと時代が下ったとき、大きな発展を遂げる。父、一郎は事業家と研究者、両面の能力に秀でていた。


父も母も、社員に大きな愛情を注いでいた。昔は豪傑な経営者が多かったというが、正月に何千人ものグループ社員を全員呼んで宴会をする経営者がほかにいただろうか。


西日本有数の不動産王となった父は、関東で巨大西武グループをつくり上げた企業家と並べられ、「西の堤康次郎」と呼ばれた。


岡山製紙のように過半数の株式を取得して林原グループに取り込んだケースもあれば、カバヤ食品のように自ら設立した会社もある。父が設立、買収、出資した企業は36社に及んだという。


父はこう話したという。
「営業でいくら巨利を得たとしても課税の対象となるので思うように蓄積はできない。これが最も容易なのは不動産と骨董品だ」


当時カバヤ食品は短期間で老舗の明治製菓を抜き去り、森永製菓に次ぐ2番手のキャラメルメーカーに急成長を遂げた。


そんな中、著者の父(林原一郎氏)はがんで急死し、著者が後を継ぎます。

父の葬儀には、政財界から7000人も参列した。


父の死後、カバヤ食品は経営権を巡って紛糾する。カバヤ食品は番頭たちの手に渡ってしまった。


私は人間不信になる代わりに、人間は本質的に欲望に生きるものだという考え方、良く言えば他人のことを全肯定する価値観、悪く言えば人間に対するある種の諦念をこのときに身に付けた。


砂糖に引きずられる形で、ぶどう糖も65年頃に最安値を付けた。しかも父の置き土産となった酵素糖化法によるぶどう糖の生産技術は、特許を取得していなかった。


1966年、全社員を前にこう宣言した。
「林原は今後、水飴とぶどう糖の既存事業を漸次縮小し、でんぶん化学メーカーとして生き残りを懸けます。この改革を、私はワンマン経営で推し進めます」


私が社長に就いてから、社員の約半分が会社に見切りをつけて辞めていった。


試行錯誤をする中で、68年に出来上がったのがマルトースだった。マルトースそのものは昔から存在していたが、純度が100%近い状態で作り出す新技術を林原が確立した。


このマルトースがヒットする。ぶどう糖は1キロ100円で売っていたが、マルトースは1キロ5000円で売れた。


マルトースの成功を機に、研究部門を「林原生物化学研究所」として別会社にした。


林原はこの研究所建設によって、甘味料メーカーからバイオ企業に名実共に転換を果たしたといえる。


独自研究に力点を置く経営手法は、80年代に量産技術を確立したインターフェロン、90年代のトレハロース、2000年代から急拡大したプルランなどの成功によって、さらに私の中で確固たるものになる。


トレハロースはその特性とコストパフォーマンスから、菓子や化粧品などさまざまな商品に採用されていった。実に約7000社に使われ、約1万種類の商品に入るまでになった。


「夢の抗がん剤」として期待されていたインターフェロンの量産技術を一介の地方中小企業が開発したことは、日本のみならず世界に対して相当なインパクトがあった。


特許部の設置は72年だから、地方の中小企業にしてはかなり先駆的だ。


1980年代後半のバブル期には含み資産がぐんぐん膨れ上がり、林原の不動産評価額は1兆円近いともいわれた。


テレビ番組「カンブリア宮殿」にも弟と一緒に出演した。


しかし、血を分けたこの弟とのコミュニケーションに問題があったようです。それは水面下で問題をはらんでゆきます...

弟は、私一人で経営方針について決めることにも不満があったようだ。甘味料業界が逆風にさらされる中、私の改革が手ぬるいと見えたらしい。


トレハロース事業が軌道に乗り、弟の尽力で米カーギル社とトレハロースの販売で提携した2000年頃が、私たち兄弟が会社分割に向けて始動するには良いタイミングだと思った。しかし、弟は会社に勢いがある時期だからこそ、逆に林原に未練を持ったようだ。


さらに、バブルの崩壊...

バブル崩壊後、大型小売店の撤退や工場の閉鎖などが相次ぎ、10分の1にも下落した。バブルのピーク期に1兆円近くあるだろうといわれた林原の不動産も、1000億円程度になったと思われる。


そして、研究偏重の経営...

林原では取締役会を開かず、社長の私が資金を自由に使っていた。その中には林原グループにとって利益をもたらすものもあれば、直接的にはそうでないものもある。会社が潰れるかもしれないというリスクを冒してまで資金を使う気は毛頭なかったが、財務のことは一切関知していなかったので、歯止めがかからなかった。


10の資産があれば、3を研究に振り向ける。残りの7をしっかり手元に確保しておけば万が一、3が0に終わっても会社は持ちこたえられる。この7に相当するものが不動産の賃貸収入、特許のロイヤルティー収入、そして、市場占有率が高い糖関係の製品群から得られる高利益率の販売収入だった。


最終的に社員約600人(中核4社合計)のうち、半数の約300人を研究者で占めた。


会社に朝9時から夕方6時までいたからといって、人に丸投げしている限り、結果は同じだったはずだ。社内にいる時間が短くても、資金繰りをチェックすることはできる。監査法人を入れれば二重三重にチェックできる。その仕組みを作ることを私は怠ったのだ。


結局、こんな杜撰な管理で借金が膨らみ、財務面で債務超過の疑いをメインバンクからかけられ、秘かに解決しようとしたものの、マスコミに情報がリークされて騒がれ、会社更生法の適用を申請せざるを得なくなります。

ちなみに、財務・経理を任せていたのは弟でした。この弟は、兄を裏切らなかったものの、コミュニケーション不足により、いよいよという状況になるまで大事な情報を隠していたのです。

しかし、最終的には債務の弁済率が非常に高い稀有な例となりました...

林原の更生処理は進み、林原家の私財提供とスポンサーとなった長瀬産業からの7000億円などを加え、最終的に弁済率は93%に達した。会社更生法の適用を受けた企業の一般更生債権の弁済率は、ほとんどが10%を切るという。


まさに波乱万丈ですね...







posted by スイス鉄道のように at 08:00| 東京 ☔| Comment(0) | 分析・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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