2017年10月15日

『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』を読んで...

島田裕巳著『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』を読みました。

金融恐慌とユダヤ・キリスト教 (文春新書) -
金融恐慌とユダヤ・キリスト教 (文春新書) -

この本のテーマは次の通り(引用です)...

西欧の経済のあり方やそれを分析する経済学の方向性には、ユダヤ・キリスト教が大きな影響を与えている。


経済の世界、さらにはそれを解釈し、理論化する経済学の世界にも宗教が色濃く影を落としているのである。


一神教が広まった国々では、さまざまな点で経済現象と宗教とは密接な関係があるものとしてとらえられている。


神学では、科学的な、あるいは現実的な証明が不可能な神の実在が前提とされ、その上に、理論が組み立てられている。それは、経済学でも同じなのではないか。そう思わざるを得ないのである。


現在の社会を成り立たしめている経済学の理論,市場(特に金融市場)の運営方法,欧米の政治家の経済政策などには、ユダヤ・キリスト教の思想がその根底にあるということ。

そのことを改めて確認するとともに、現在の経済学は一種の宗教ではないか、また、それを反映した金融や政治の仕組みも宗教チックに運営されているのではないかということが指摘されています。

私がこのブログで何回か紹介してきた経済本のかずかずの内容ともマッチしており、頷かせるものが多々ありました。

以下、詳しい引用をします。

スミスは、見えざる手とは言っているものの、神の見えざる手とは言っていないのである。


”見えざる手”というのは資本主義を唱えたとされるアダム・スミスの有名な言葉ですが、スミス自身は敬虔なクリスチャンではなく、理性を重んじる学者でした。

それが、彼の理論が世の中に広まる際に言葉が粉飾され、あたかも神(God)が市場を介して富の再分配や適正価格(=正義の価格)を形成するのだ、といった理屈が作られ、それが独り歩きします。

この路線が実は今に至るまで続いているという...

一時期は、社会主義国家ソビエト連邦の誕生や、社会主義的政策であるケインズ主義が登場したものの、結局、ソ連崩壊とともに、宗教チックな資本主義が20世紀末から復活します。

それが、”新自由主義”と言われるものなのです。

以下、歴史の流れをたどりながら、変化を追ってみます...

スミスの経済学を受容した西欧の社会は、それをユダヤ・キリスト教の信仰の近代版として受け取り、市場の自動調整メカニズムに全幅の信頼を寄せた。それ以降の経済学も、市場の安定性に対する信頼、あるいは信仰を前提とし、その安定性を正当化する役割を果たすようになっていく。それに果敢に挑戦したのが、マルクス経済学であり、ケインズの経済学であった、ともに神の見えざる手の働きを前提とする主流派の経済学とは異なり、不確実性や不均衡を主張した。


権力を奪取した後に、どういった社会を実現していくのか、明確なプランが必要なはずである。ところが、新たな社会のあり方について、マルクス主義はそれを示せなかったのである。


ケインズは、決して無神論者ではなかったものの、イギリスの知的なエリートとして、カルヴィニズムやピュウリタニズムの信仰をもつこともなければ、終末論を信奉することもなかった。


ケインズ経済学こそが、はじめてユダヤ・キリスト教の神学、信仰から離脱した合理的で現代的な経済学になり得たとも言える。しかし、その後のアメリカでは、ケインズ経済学を批判する反ケインズ経済学が隆盛を極める。それは、合理的期待仮説に見られるように、神の見えざる手への回帰をめざすものであった。


経済の世界における市場原理主義と宗教の世界における原理主義の台頭は、同時代的な現象である。市場原理主義という言葉自体は、1998年頃から使われるようになったのだとしても、反ケインズ経済学の隆盛はすでに1970年代からはじまっていた。一方、宗教的原理主義全般の火付け役となったイスラム教原理主義の台頭も、イスラム教が広まった中東地域の重要性を世界に認識させた1973年のオイル・ショックに遡る。


宇沢弘文は、『経済学の考え方』(岩波新書)のなかで、この反ケインズ経済学について興味深い指摘を行っている。反ケインズ経済学は、合理主義の経済学、マネタリズム、合理的期待形成仮説、サプライサイド経済学など、さまざまな形態をとっているものの、理論的な前提が非現実的で、政策的に偏向しており、どれも「市場機構の果たす役割に対する宗教的帰依感をもつもの」だというのである。


こうしたことの結果、欧米主導の現在の政治経済体制は、ユダヤ・キリスト教的な発想で運営されていて、日本もその影響を受けています。

20世紀末の橋本内閣時代の金融ビッグバンに、21世紀に入ってからの小泉内閣時代(竹中平蔵大臣時代)のさまざまな改革群...

みな、”外圧”によって日本経済が欧米チックにさせられたものですが、その弊害は大きかった...

金融機関の場合には、他の金融機関との競争があり、儲けが出る状況が生まれているのなら、たとえそれがバブルであると分かっていても、投資を控えることができない。もし、その局面で投資をしなければ、顧客を他の金融機関に奪われるからである。


構造改革推進の旗頭の一人だった中谷厳は、2008年に『資本主義はなぜ自壊したのか〜「日本」再生への提言』(集英社インターナショナル)という本を出版した。中谷は、この本のなかで、アメリカ流の新自由主義を信奉して、市場原理主義を賛美し、構造改革に邁進した自らの姿勢に対して深く反省し、そうした立場からの決別を宣言した。


市場の自動調節機能が働くのは、経済の規模がひたすら拡大を続けている時代においてのみで、ひとたび経済状況が停滞し、拡大が止まると、その機能は働かなくなる。


無宗教である日本人からすれば、欧米で発達した経済学という学問は、根拠の薄弱な前提によって立つ神学的な試みに見えてくる。しかも、経済学は、神の絶対的な力への素朴な信頼を核としていて、その点で極めて脆弱なものにしか思えないのである。


金融危機を経験しても、金融資本主義に根本的な反省が加えられず、すぐにその傾向が復活してくるのも、その背景に数千年にわたる信仰の歴史が横たわっているからである。


結局、”市場原理主義”とは宗教の一種であり、それによって成立している現在の市場経済も金融も、科学的な要素はなにもなく、「うまくいくだろう的な」彼ら(=欧米人)の信仰にすぎないというのです。

著者のいう結論はこうです...

私たちは、神の見えざる手の神学としての経済学から解き放たれていく必要がある。それが実現できなければ、ふたたび経済の危機的な状態を経験しなければならないのである。


そして、共同体的な日本流の資本主義(戦後の高度経済成長を支えた、but崩れかかっている)か、イスラム流の利子をとらない経済がいいと言っていますが、果たしてどうか???

答えはそう簡単には出ないように私には思いますが...

また、答えがもし出ても、信仰的に現在の市場主義的資本主義を信奉している欧米の有力な政治家や資本家,経済学者の説得や翻意は難しそうですね...








posted by スイス鉄道のように at 08:00| 東京 ☀| Comment(0) | 投資情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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