2017年10月21日

『クアトロ・ラガッツィ』を読んで(前編)

若桑みどり氏著『クアトロ・ラガッツィ』を読みました。

クアトロ・ラガッツィ―天正少年使節と世界帝国 -
クアトロ・ラガッツィ―天正少年使節と世界帝国 -

著者は東京藝大卒の美術史家でして、ローマへの留学経験もある方です。

本の内容は、教科書にも載っている有名な事件で、戦国時代末期に企画・実行された「天正少年使節派遣」について、その裏側を含め、非常に詳しく著述されている歴史書といってもいいでしょう。

バチカンの図書館や上智大学キリシタン文庫などの多種の文献を直接あたって真の人物像に迫るというアプローチのし方で書かれた苦心の一作のようです。

以下、引用です...

作家ではない私は、基本的に記録にあるものしか書かない。


私が書いたのは権力やその興亡の歴史ではない。私が書いたのは歴史を動かしてゆく巨大な力と、これに巻き込まれたり、これと戦ったりした個人である。このなかには信長も、秀吉も、フェリペ二世もトスカーナ大公も、グレゴリオ十三世もシスト五世も登場するが、みな四人の少年と同じく人間として登場する。彼らが人間としてすがたを見せてくるまで執拗に記録を読んだのである。


キリシタン側の史料の特色は、キリシタンの動向を中心にしているのはむろんだが、日本の公文書作者に固有の紋切り型文章ではなく、いわゆるリアリズムで細部を記述するところに特徴があり、日本の現状には基本的に批判的なので、覚めた冷静な観察を行っていることである。


いまわれわれがこの『日本史』(ルイス・フロイス著)を読むと、十六世紀のカトリック宣教師それもポルトガル人の宗教的先入主にうんざりするが、それと同時に日本側の語りではけっして見ることのできない、別の面から見られた当時の日本のありさまが鮮明に見えてくるのである。


日本ではキリシタン側の史料は一般に低く見られる傾向があるが、実際にはその記述は相当に公正である。彼らにはだれかを栄光化する必要がない。ただしキリシタンは別である。したがってキリシタン以外の記述は信憑性が高い。


まさにこの通りで、日本国内の貴顕や名門に対する遠慮なしに書かれた当時の外国人の史料に主として取材・立脚することによって、日本社会の体制や思想があぶり出されています...

日本古来の権力者の恐ろしさや無情さ、そして怒らせたらいかに怖いかが、よく描かれていました。

それに比べれば、人権思想がゆき渡ったいまの世の中で、マスコミの報道にあからさまにされた今の日本の権力者たちはカワイイもんです。

もっとも、550ページにも及ぶこの大著の主要部分は日本の権力者像を描いた点にあるのではなく、キリスト教勢力が一枚岩ではなかったことを描いている点です。

国家権力を背負っていたスペイン人・ポルトガル人の宣教師に対し、イタリア・ルネサンスの人文主義の教養を身につけたイタリア(=当時は小国に分裂していた)人の宣教師とは全然違った人種であって、前者が従来の歴史家が取り上げてきた侵略者勢力の一部であるのに対し、後者は人間的に素晴らしく、また日本の武将たちにも庶民たちにも好かれたことも書いてあって、目からウロコでした。

イタリア人宣教師というのは主に2人出てきて、名前は、ヴァリニャーノとオルガンティーノといいます。

以下、引用です...

征服者的ではない、文化教養人的なヴァリニャーノが巡察師に任命されたのには、イタリアとスペイン、あるいはカトリック教会とスペイン・ポルトガル国家とのあいだの政治的な対立が関係していたということである。つまり、イエズス会の総会長は、布教があまりにも王国本位に傾き、宣教師の国籍もあまりにもポルトガル、スペインに傾きすぎることを抑制したいと思った。


ライバルのプロテスタントであるピーター・ムンディが日本イエズス会を弁護してこう言っている。「心から言うのだが、彼らは、彼らの目的のために、労働も、勤勉も、危険もかえりみなかったのだ」。そしてその目的とは「神の栄光」である。


イエズス会は一般の青少年の教理教育を中心に、青少年の教養に役立つすべての学問と技芸を教える教育機関を世界の各地に造っていた。……(中略)…… 教育方法は一五九五年に制定され、基礎教養科目から専門課程にいたる組織的学制をつくったが、それは世界の教育史上画期的なもので、近世教育のさきがけであった。ここでの教育の新しさは科学と数学が重視されたことで、グレゴリウス十三世が断行した太陽暦の制定にたずさわったローマのコレジオの教授クラウヴィウスが大きな役割を果たした。


キリスト教徒でない人には(私もそうだが)奇妙にみえるかもしれないが、少なくとも、この時点では、キリスト教は世界を説明する原理でもあったのである。それだから、キリスト教徒の文明が近代的な宇宙観を形成できたのである。


ヴァリニャーノは日本人は野蛮な未開な人種ではなく、古代ローマ人がそうだったように、異教の大いなる文明人だという考えを示した。


使節派遣を計画したひとりのイタリア人の神父ヴァリニャーノはルネサンス的な教養をもった高い知性の人で、日本と中国を西欧とは異なっているものの同じように高い文明をもった国として尊敬していた。東西の文明の相互理解をめざしたのがこの使節派遣の大きな目的だったのである。


ヴァリニャーノはただ教義、信仰のみではなく、文化と学問の全体を輸入するのではなく、日本人をして創らせることに眼目をおいていたことがわかる。それは日本最初の人文教養課程の創始だった。


ヴァリニャーノが日本の学校のために考えたカリキュラムはまったく独自のもので、これはヨーロッパにもどこにもないものであった。人文課程の主要な科目は、ラテン語とそれをとおしての西洋古典の購読が第一、そしてそれと同じほどだいじな柱が日本語と日本文学だった。つまり、ヴァリニャーノは日本の少年を「西洋人」にする気はなかった。「東西を知る人間」にすることが基本的な理念である。


注目すべきことは、これらの新しい布教の方針を出したのはすべてイタリア人だったということである。ヴァリニャーノ、リッチ、ルッジェーリばかりでなく、秀吉と信長に信頼され、都の日本人にこよなく愛され、ヴァリニャーノを助けたイタリア人宣教師、オルガンティーノ(ニェッキ・ソルディ)がそうで、彼らはみなヴァリニャーノと同じ人文主義課程に重きを置くイエズス会のコレジオで学んだ。


日本の民衆や、とくに知識人、僧侶などが熱心に知りたがることがらについて、宣教師は教会に学校をつくって組織的に教える必要を感じた。むろん、キリスト教を教えることが眼目だが、そのカリキュラムをみると、初等知識全般になっている。


要するに、宗教の布教活動だけを行うのではなく、文学や科学知識なども並行して教えることで日本人の心をつかんだのだということのようです。

そういう活動内容にしたのは、彼ら教養の高いイタリア人宣教師が、おごらずに日本人をよく観察し、そして分析したからだと著者はいいます。

ヴァリニャーノの「日本人の長所について」という文章を見てみよう。
 ……(中略)…… 
「日本人は世界でもっとも面目と名誉を重んずる国民である。彼らは侮蔑的な言辞はいうまでもなく、怒りを含んだことばにも耐えることができない。したがってごく下級の職人や農民と語るときにも礼節をつくさなければならない。彼らは無礼なことばは我慢がならず、(それに会うと)収入があってもその職を放棄するか、不利であってもほかの職についてしまう」


乱暴な扱いを受けると仕事をやめてしまう、それも当人に不利であってもほかの職についてしまうというのは、今にも通じそうです(笑)。

日本人の心性って、そんなに昔から変わってないんだなぁ...

ともあれ、こうした真摯でルネサンス的なイタリア人宣教師の布教活動により、九州中心にどんどんキリシタンが増えていきます...

キリスト教が、伝統的な宗教である仏教と激しく対決したにもかかわらず、なぜ、伝道後数十年にして信者が九州の全人口の三〇パーセントをこえる三十万に達したのか。


その答えは、ルネサンス的な教養を備えたイタリア人宣教師の活動にあったわけです...

そして、彼らは、暴君の織田信長や豊臣秀吉にもうまく取り入ることに成功します...

信長はオルガンティーノに恩義を感じ、彼に約束したように前にもまして絶大な保護を教会に与えるようになった。まさに、この一五七八年(天正六年)から信長暗殺の一五八二(天正十年)が、日本キリスト教の絶頂期をかたちづくる。


信長がヴァリニャーノをどう思ったかは、ただ彼の行動によってのみ推察できる。巡察師らが御前を辞して帰途についたとき、信長は古なじみのフロイスを呼び戻して、りっぱな鴨(鵞鳥?)十羽を巡察師に届けるようにと言って彼に託した。


オルガンティーノは肉食をやめ、すべてを日本人に合わせていた。しかも多くの君主、かの秀吉さえ彼を愛した。のちに秀吉がキリシタン迫害をはじめたとき、石田三成がオルガンティーノの名前を言ったので、秀吉は「神父皆殺し」を思いとどまったほどである。


性的に放縦であり、女漁りに目がなかった秀吉は、キリスト教徒の純潔と夫婦間の貞節が信じがたいものに見えたが、そのいっぽうでは、そうした清潔な人間のことは尊敬もした。


大阪城の宝物庫を秀吉が司祭らに見せたとき、ここに出入りできるのは右近と、そして数人のキリシタンだけだと神父は書いている。右近は忠誠と正直の権化であり、秀吉はそれに信頼をおいていた。右近ばかりではなく、秀吉はあるときまでは信長の忠臣であったキリシタン武将たちに大いに頼むところがあった。たとえば、最初のキリシタンのひとりであり、日本教会の柱石のひとりである小西隆佐を出納係とし、堺市の管理を任せたし、その息子でもっとも高貴な武士である右近の友人小西行長を九州平定の水軍監督にした。


しかし、事態はここから急展開を見せていくことになります...


明日へ続く...








posted by スイス鉄道のように at 08:00| 東京 ☁| Comment(0) | 分析・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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