2017年10月22日

『クアトロ・ラガッツィ』を読んで(後編)

昨日からの続きの記事となります...

イタリア・ルネサンスの息吹が極東の島国・日本にも吹き、人文主義的な教養を持ち合わせたイタリア人宣教師の布教活動によって、戦国末期の日本に、どんどんキリスト教徒が増えていきます...

しかし、そんなうまくいっていたイタリア人宣教師中心の布教活動にしだいに影がさしていきます...

貴族出身の宣教師たちは、ザビエルもヴァリニャーノも本能的に日本の武士が好きで、日本の大名たちも、礼儀正しく威儀を重んじる彼らと共感することがあった。これは聖フランチェスコを模範にするフランシスコ会の民衆的な手法や考えとは真っ向から対立し、日本でもこの両派の対立と葛藤が多くの問題を引き起こすことになる。


最大のショックはイエズス会に起こった。なぜならば、グレゴリオ前教皇はイエズス会の強力な支援者、一部に過度と言われるほどの後援者だったからである。ところが、新教皇はライバルのフランシスコ会士だった。


シストが即位してから日本の布教にフランシスコ会士が乗り出してきて、重大な迫害に発展するのは、大本の教皇庁のこのような変化が原因だったことはたしかだ。


新教皇(シスト五世)の選出、そしてイエズス会とイタリア人宣教師の後退...

それに呼応して、フランシスコ会士とスペイン人らが前に出てきます。

きっかけは、秀吉の九州征伐の直前のタイミングに起こりました...

オルガンティーノは秀吉の気質を非常によく知っていた。そして、話題が戦争の話に及んだとき、秀吉が、じつは、宣教師が戦争の問題に介入することをもっとも嫌悪していることを知っていたので、話題がこのことからそれるようにフロイスに代わって自分が通訳したいと申し出たが、コエリョは、かねてから、日本人に人気の高いイタリア人司祭に嫉妬していたので、この申し出を聞きいれず、フロイスに通訳させつづけた。


つまり、このとき秀吉は、宣教師がキリシタン大名を戦争に動員することができるし、彼らを支配できる、ということを「確認」したのである。これがのちに切支丹神父大弾圧の火種になった。


謁見後、キリシタンで秀吉の秘書だった安威シモンは、オルガンティーノに向かって、フロイスが言ったことは不幸な結果を招くかもしれないと心配した。ヴァリニャーノはオルガンティーノからこの話を聞き、心底怒った。彼にはいろいろなことが見えていた。とくに、戦国大名の猜疑心を知っていたので、コエリョが、秀吉の九州征伐には彼ら神父が役立つということを強調すればするほど、じつは、秀吉の猜疑心が増すということを心配した。ところがコエリョは、自分たちが大名を動かせるということを秀吉が知れば、いっそう教会に尽力するだろうと信じていたのだから話にならない。


じつは神父が戦争に干渉する力をもっていることや、キリシタン大名を動かすことができるということが、秀吉の邪推を起こすことになるのは時間の問題だった。


自信のない権力者は、相手の目のなかに少しでも自分への軽視を見たときには、これを抹殺せずにはいられない。だからこそ、コエリョが自分たちの力や武器を自慢したときに右近やオルガンティーノは震え上がったのである。


秀吉の態度急変の直接の原因は、秀吉の侍医である仏僧、施薬院全宗の訪問だった。彼はかねてから高山右近の領地で仏寺が破壊されたことを恨んでいて、前々から復讐をねがっていたので、秀吉の疑心に油を注いだのだという。


九州征伐が終わったあとで、秀吉は突然宣教師追放令を発するとともに、キリシタン大名の高山右近を追放します。

きっかけは上に引用したように仏教勢力の反撃でしたが、権力者(=秀吉)の嫉妬や猜疑心がその根底にありました。

そして、九州征伐の完了によって九州のキリシタン大名と宣教師は秀吉にとって用済みとなってしまったので、冷遇されることになっていくわけです。

さらに、秀吉は、キリシタン大名がイエズス会に寄進していた長崎を取り上げます。

すると、宣教師たちは秀吉に対抗しようとして、スペイン軍に援軍を要請するという相談を始めてしまいます。

この段階では教養あるイタリア人宣教師は少数派になってしまっていて、スペイン・ポルトガル人たちが多数意見により取り仕切っていき、事態はより悪化していくばかりでした...

スペイン人のモーラ、ラグーナが賛成し、ポルトガル人のコエリョ、フロイス、レベロも賛成だった。フィリピンのスペイン軍に援助を要請することに強く反対したのはこのなかでただひとりイタリア人のオルガンティーノだけだった。


もうこうなったら元へは戻りません...
事態は、悪いほうへ悪いほうへと進んでいきます。
(もっとも、フィリピン総督は援軍を派遣しませんでした。ただしそれは余裕が無かったからのようです)

ただし秀吉は、最初は布教活動だけを禁じ、経済的な利益を生む貿易は禁じていませんでした。

そんな中、その禁止命令を犯して、フランシスコ会系の宣教師が布教活動をしてしまいます。

バウチスタ師らは、自分たちが住む場所を秀吉に要求し、秀吉は所司代の前田玄以をとおして、彼らに家を建てさせることを許可した。そのとき前田は、彼らの家では説教したり集会をしたりしてはならないと厳命した。しかし司祭らはまったくおかまいなしに、聖歌隊席や高い祭壇のある主礼拝堂のついた教会を建造して、ヌエストラ・セニョーラと名づけ、そこで説教を始め、日曜、祝日にミサをやりはじめた。


さらに悪いことに、朝鮮出兵と自然災害による秀吉政権の財政悪化、漂着したスペイン船の航海士が口をすべらした事件、フィリピンのスペイン総督府との関係悪化と続き...

ついに秀吉は、長崎での二十六人処刑を命じます...

そして、最終的には家康時代になって、ご存知の通り、徹底的なキリスト教大弾圧へと歴史は進んでいくことになるわけです。

その原因は、ひとつには日本の事情を考慮せず、秀吉に逆らって布教を開始したフランシスコ会系の宣教師たちにありました(上に書いた通りです)...

著者はこう書いています...

あえて言えば、来てはならないときに来て、してはならない布教をしたフランシスコ会士が、平和にくらし、平和に死ぬはずであった多くの若者、老人、子供を、巻き添えにしたのである。


もうひとつは、結局、スペイン・ポルトガルという外国と日本人キリスト教徒とが、武家勢力による軍事的中央集権国家形成のためのスケープゴートにされたことにありました。

近世の中央集権国家の基礎固めは、キリスト教というひとつの宗教集団のホロコースト的な撲滅政策とともに、はじまった。それは、恐怖というもっとも効果的な方法で、ざわめきたっていた日本人の心を凍らせた。仮に禁圧すべき邪教がなかったとしたら、秀吉は日本人や日本の国体に対する共通の敵をつくり出すことができず、自分にさからうものはすべて破壊するという恐怖の支配を合法的に演出することもできなかったであろう。


秀吉は下層の民衆の信仰はとやかく言わない、信仰は基本的には各人の勝手である、しかし大名が集団で改宗させるのはよくないという考えであったが、家康は宣教師の居住や布教を禁じたばかりではなく、民衆のキリスト教信仰をも全面的に禁じたのである。


徳川時代に数多く出た排耶蘇文書は、秀吉の伴天連追放は「蒙古撃退」に並ぶ壮挙であると書いている。


天下統一を成し遂げた偉人として秀吉・家康を賛美する人たちは多いですが、こうしてみると、昔の権力者の行動というものは血も涙もないなぁ、とも思います。

こういう封建社会の暗部をよくよく考えてみると、世の中というものはいろいろありながらも、少しづつですけど良くなっていっている気がします。








posted by スイス鉄道のように at 08:00| 東京 ☁| Comment(0) | 分析・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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