2018年05月02日

チェスタトン著『正統とは何か』の感想

G・K・チェスタトン著『正統とは何か』を読みました

著者は、大英帝国最盛期の文人にしてジャーリストであり哲学者。

日本では推理小説の『ブラウン神父シリーズ』の作者として有名です。

正統とは何か
正統とは何か

世界中に植民地を持ち覇を唱えた大英帝国の最盛期にあって中流階級に生まれたチェスタトンは、若い頃は、画家を志したり、文学に傾倒したり、酒場通いをしたり、恋に落ちたりと、やや夢を追いかけがちではあるけれども、ごく普通の若者として人生を過ごしたようです。

が、ジャーナリズムの世界に入り、世相を追いかけたり、評論を書いたりする中で、いろいろと思いを巡らし、思想的には”保守”へと辿り着きます。

西洋で保守といえば伝統的なキリスト教思想であり、結局、47歳のときにカトリックに改宗します。

イギリスといえば反カトリックの国であり、また、世俗的で非宗教色の強い産業革命の発祥の国なわけでして、そんななか自由主義的な著名なジャーナリストが保守思想へと逆行することに当時は物議をかもしたそうです。

しかし彼に言わせれば、人間らしさや幸福は逆にそこにあることを発見したのだそう。

新しいことや自由のなかには幸せは見つからないのだといいます。

この著作『正統とは何か』は、いかにしてその答えにたどりついたのかという、彼の思想的遍歴がつづられています。

宗教色の強い記述が多いので、そうでない箇所の中で含蓄に富むところを以下に紹介したいと思います。

この宇宙という不思議の国にあって、単に住みなれていて安閑としているばかりでなく、真に幸福でなければならぬのである。私が以下本書で追求しようとするのは、何よりもまず、いかにしてこのことを成し遂げるかという一事である。


想像は狂気を生みはしない。狂気を生むのは実は理性なのである。詩人は気ちがいになりはしない。気ちがいになるのはチェスの名人だ。数学者は気ちがいになる。それに出納係。だが創造的芸術家はめったにならない。


狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。


一人の女と結婚するということは、他の一切の女を諦めるということである。それとまったく同様に、ある一つの行動を取るということは、つまり他の一切の行動を諦めるということにほかならない。


みんな自分が誰だが忘れてしまっている。宇宙は理解できても、自己を知ることはできない。自己はどんな星よりもさらに遠い。


人生はダイヤモンドのように輝くが、同時に窓ガラスのように壊れやすい―私はそう感じ、そして今もそう感じている。


オスカー・ワイルドの警句の一つに、太陽に金を払うことはできぬから落日には値うちがないというのがあった。だがワイルドはまちがっている。落日に払うべき値段はちゃんとある。われわれはワイルドではないという、そのこと自体がその値段なのである。


人びとはローマが偉大であるからローマを愛したのではない。ローマは人びとがローマを愛したから偉大となったのだ。


愛は盲目ではない。盲目ほど愛から遠いものはほかにない。愛は束縛である。そして、束縛されればされるほど、それだけ盲目から解放されるのだ。


人間は、歓喜が人間にとって根源的なものであり、悲しみは表面的なものにすぎぬ時こそ、まさしく人間自身となり、いかにも人間にふさわしいものとなる。


どれもこれもみな、深〜いですねぇ...

読みごたえがあるし、読後感が決して裏切らない、タメになる一冊だと思います。








posted by スイス鉄道のように at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | 分析・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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