2019年08月10日

『物部氏の伝承と史実』を読みました

前田晴人著『物部氏の伝承と史実』を読みました。

著者は日本古代史について大胆な説を唱えてこられた方ですが、今作は比較的オーソドックスな内容になっておりました。

表題の通り、日本古代史の一方の雄、物部氏についての研究成果が記されています。

物部氏の伝承と史実
物部氏の伝承と史実


物部氏の本拠地とみられるのは大阪府の河内地区であり、私の出身地でもあります。なので、とても興味深く読ませていただきました。

著者の研究成果としては、
一、物部氏は意外と新しい氏族であること
二、物部氏は大豪族というより、政府機構の一翼であったこと
です。

一は、記紀神話では初代神武天皇の代からの古い豪族のように書かれているが、実際には物部氏とは、第21代雄略天皇の代(5世紀末頃?)から政界に躍り出たようです。以下、引用です。

書紀の筋書きは『古事記』とはおよそ異質な内容になっていることがわかり、ニギハヤヒの性格・立場が神武天皇に対して不遜なあり方になっている半面、反逆者と内通した上でこれを殺し天皇への忠義を尽くすという矛盾に満ちた態度がより鮮明に描かれていることが理解される。このような矛盾の原因はやはりニギハヤヒとトミヒコ(長髄彦)をめぐる原話を神武東征伝承の一角に組み込もうとしたことにあり、本来は東征伝承とは無関係な神話だったと解することができる。


もともと生駒山に天降るニギハヤヒ・ウマシマジの信仰を保持していたのは穂積氏で、同じく河内国を本貫とした物部氏は、穂積氏の氏祖神を両氏族のみならず物部一族・同系関係諸氏全体の始祖神に仕立て上げたのではなかろうか。ニギハヤヒがいつそのような統合神になったのかは不明であるが、物部大連麁鹿火の執政期にいち早くそうした動きがあったものと推測する。というのも、先ほど引用した『先代旧事本紀』の伝承によれば、ニギハヤヒは河内国の河上の哮峯から鳥見の白庭山に遷坐したとされており、奉祭神のこのような遷坐は物部大連の大和における重要拠点「阿都家」の設置と密接に連動する関係にあると考えるからである。


穂積氏は物部氏や蘇我氏と同様に六世紀初頭から活躍の始まる新興勢力とみることができる。


穂積氏が継体朝の早い時期から対外関係で重要な役割を果たしていたことは、同氏が航洋船を確保できる実力や技術を有し、河内国の本貫がそのような生活環境下にあったこと、また河内の樟葉に最初の宮都を置いた継体天皇は即位以前より穂積氏の存在と実力を知っていたことが関係するだろう。


穂積氏は物部大連家とともに河内国を本貫とする氏族であったこと、両氏ともに同じ時期から対朝鮮外交・外征に関与していた実績があること、職掌の面では警察・軍事部門を主に担当した氏族であることなど共通点が多く、かなり早い時期から同族関係を結成する契機が存在したと考えてよい。


麁鹿火がいつ大連に就任したのかは不明であるが、書紀の継体元年二月条に大連就任記事があり、継体朝から宣化元年に没するまでとみられ、尾輿については欽明即位前紀に大連任命記事があり、その没年は不明であるが欽明朝後半頃と推定され、守屋は尾輿の死を受けて大連となり、さらに敏達元年四月に大連に任命され、用明元年七月の丁未戦争で滅亡する。大連三代を合計すると書紀紀年では五〇七年から五八七年までのおよそ八十年間となり、この期間を物部の全盛期とみることができる。


大和川下流域は洪水の多発地帯で低湿地が一面に広がっており、古墳を造営し後世に伝えていくという事業には適さない土地柄であった。おそらく王権はそのような事情を考慮し物部の奥津城を大和国内に与えることとし、その適地として石上郷北部の丘陵地帯を指定したのではなかろうか。その時期については雄略朝前後とみて誤りがないと思われる。


『新撰姓氏録』に登載された物部同族・同系諸氏族は全部で一一六氏の多数にのぼるが、そのうち四八氏が饒速日命(ニギハヤヒ)ではなく伊迦賀色許男命・伊香色雄(イカガシコヲ)の後裔を主張しており、「イカガシコヲ」の物部祖先系譜上における地位・存在感にはすこぶる注意を要する。


矢柄村の南に隣接する形で「伊賀ケ村」(生野区巽東一丁目・二丁目)が所在した。「伊賀ケ」は「イカガ」と読まれてきた地名であり、物部氏の遠祖伊香色雄(イカガシコオ)の起源をなす重要な古代地名であると推察される。


極端な言い方をすると物部大連=伊香色雄とも表現できるのであり、イカガシコヲは物部大連家の本来の始祖神であり、渋川郡北中部地域こそが物部大連家の発祥地だったのではなかろうか。


欽明朝には祭官制の創出によりこれまで述べてきた王権祭儀の改革が敢行された模様で、右の諸伝承には三輪・物部・穂積・倭・中臣などの祭官関係有力諸氏族の名が挙がっており、そのなかで物部連は三輪君と並んで祭官の主導勢力になったとみられ、イカガシコヲの伝承はそうした物部連の職権を象徴する人物像に昇華し、丁未戦争以後にはイカガシコヲが物部氏の祖先伝承において大きな地位を占めるようになったと考えられるのである。



二は、大和朝廷の警察機構のトップの役職を任されていたのが物部本家であって、天皇家と対抗するような勢力ではそもそもなかったらしいということでした。以下、引用します。

物部大連は朝廷の最高執政官として国政運営に参加し、それと同時に警獄の最高統括官として宮都・畿内・地方に張りめぐらされた物部の組織全体を統制管轄した。後章でも述べるように畿内の場合は大和・河内(凡河内)・山城が大きく三管区に区分されていたらしく、大連家の子息らが各管区の統括官に選任されていたようである。そしてその下部機構に弓削連・朴井連・韓国連・今木連・阿刀連・登美連・高橋連・交野連・依網連・高屋連・曾根連など地域名を負う有力伴造氏族が各地に配されており、これが物部の上級機構を構成した。一方、下部機構は佐伯造・二田造・矢田部造・大市造・大庭造・舎人造・坂戸造などの伴造氏族と、二田物部・久米物部・当麻物部・鳥見物部・羽束物部・肩野物部・尋津物部などの伴部(「百八十部」)から成り、後節でもしばしば実例を示すように警獄の実務を担当したのである。


伝承の内容を順に整理してみると次のようになる。
 一、物部守屋と中臣勝海は疫病の原因は蘇我臣が仏法を始めたことにあると天皇に奏上した。
 二、天皇はその意見は理屈にかなうとして仏法崇拝の停止を命じた。
 三、物部守屋は勅命に従って行動し、寺塔を斫り倒して焼き、火を縦けて仏像・仏殿を焼き払い、その他の仏像を難波堀江に流し棄てた。
 四、守屋は蘇我馬子とその配下の修行者を叱責し恥辱を加えた。
 五、守屋は馬子に供奉する三人の尼僧を喚び出して禁錮し、有司に命じて海柘榴市の亭において尻・肩を鞭打った。
 廃仏派の行動は一見すると乱暴きまわりない破壊行為・残虐行為のようにみえるが、彼らの行動は根本的には勅命に基づいていることを考慮に入れる必要がある。


守屋の職務執行の内容は三〜五の事項に区別することができ、三はA「寺塔の斫り倒しと焼却」・B「仏像・仏殿の焼却」・C「仏像の水流投棄」である。AとBは仏塔・仏殿・仏像に対する火刑の執行と言ってもよく、Cは大和川流末の難波堀江における仏像の底根の国への追放刑、すなわち穢れの国土からの祓除を意味するであろう。いずれの行為も単なるやみくもな仏教施設・仏像・仏具への破壊・暴力ではなく、政治的社会的な承認を得た刑罰・断罪とみなすことができ、この場合は人間に課せられる刑罰を仏法に適用したに過ぎないのである。


丁未戦争(五八七年)で物部大連は敗死する。しかし畿内をはじめ全国の物部はこの戦争の影響をほとんど受けなかった。なぜなら警獄・行刑の職務は常時欠かせぬ公共的機能であり、勝利者側の蘇我大臣家は物部大連家が統括していた「警獄の権」を全面的に回収・継承したものの、機構そのものを改組する必要性はほとんどなかったからである。


中央の警察・行刑に関わる諸官司には数多くの伴部の物部が配置されていたが、延喜式・式部上に「凡そ囚獄司の物部は、負名の氏幷びに他氏の白丁を通じ取り、十人を補い、兵杖を帯びよ。其の東西市は各亦負名の氏の入色十人、白丁十人を取れ」とあり、令制前からの伝統を有する負名の物部を採用する慣例が平安時代以後にもなお受け継がれていたことがわかる。



以上、非常にためになる箇所もあったし、目を見開かれる指摘もありました。著者の慧眼に敬意を表したいと思います。

私は歴史好きなのですが、日本史では古代史にとくにロマンを感じています。

ただ、日本古代史はその典拠となる古事記と日本書紀が脚色と粉飾に満ち満ちており、たくさんの謎が絡み合っていますが、このように優れた研究家が解き明かしてくれるのを今後も心待ちにしたいと思います。






posted by スイス鉄道のように at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | 雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

にほんブログ村