2019年12月26日

安部龍太郎著『信長はなぜ葬られたのか』を読んで

安倍龍太郎著『信長はなぜ葬られたのか』を読みました。

織田信長に関する、通説とは異なる視点・観点から掘り下げた史論となっております。

信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変 (幻冬舎新書)
信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変 (幻冬舎新書)


織田信長といえば、これまで歴史書、時代小説、テレビドラマ、映画などであまた取り上げられ知らぬ者のない有名人物ですが、そんな信長の知らない側面がこの本にはたくさん出てきてたいへん勉強になりました。

また、信長の後を継いだ秀吉とその軍師である黒田官兵衛の知られざる情報もありました。

それらは主にキリシタンとカトリック教会がからんでいました。

例によって以下に引用いたします。

@信長の墓について

本能寺の変で自刃した織田信長の遺体は、ついに発見されなかったというのが定説のように喧伝されているし、そう思っておられる方も多いのではないだろうか?
実はかく言う筆者もその一人で、ある歴史書をひもといている時に「信長の墓は京都の阿弥陀寺にある」という一文を読んで「あれ?」と思ったものだ。


この寺が信長の墓所となったのは、開山清玉上人の活躍のゆえである。
信長と親しかった清玉上人は、本能寺で合戦が始まったと聞くと、二十人ばかりの供を連れて寺に駆けつけた。
ところがすでに信長は自刃した後で、近習たちが遺体を敵に渡さぬように荼毘に付していた。
いずれも顔見知りの者たちだったので、清玉上人は信長の墓を作って供養すると言って遺骨を引き取り、本能寺から逃れる僧たちにまぎれて脱出した。


秀吉は、葬儀を盛大に行なって信長の後継者となったことを天下に示そうとした。
そこで信長の遺骨のある阿弥陀寺で葬儀をしたいと申し入れたが、清玉上人は頑として拒否した。秀吉はやむなく信長の遺品だけを集めて十月五日に大徳寺で葬儀を行ない、阿弥陀寺を徹底的に弾圧したのである。


なるほどです...

信長の首が見つからないという通説は間違っていたわけで、これは今度京都へ行く際にこの寺に行かなければと思いました。


A信長政権の揺らぎの原因と本能寺の変の裏側

スペインの使者として信長に対面したヴァリニャーノは、明国征服のための軍勢を出すように要求した。ところが信長はこれを拒否し、イエズス会と断交し、キリスト教を禁じた。
このために信長政権は急速に揺らぎ始めた。理由のひとつはキリシタンだった大名や武士が、宣教師らの指示に従って反信長派になったことだ。そしてもうひとつは南蛮貿易をつづけられなくなることを恐れた堺や博多の大商人たちが、やはり反信長に回ったことである。


都では信長打倒をめざして二つの勢力が動き出していた。
ひとつは足利幕府の再興をめざす足利義昭の一派である。義昭はかつての家臣だった明智光秀や、信長の圧迫が強まることを恐れていた朝廷の有力者(その筆頭は近衛前久である)に働きかけて、信長を洛中におびき出して討ち果たす計画を立てていた。
もうひとつはこの動きを察知したキリシタン勢力である。世界中で植民地獲得のために暗躍してきた宣教師たちは、キリシタン大名たちにこの計画に加わるように命じた。義昭派と結託して当面の敵である信長を倒し、その後に義昭派を倒せば、労せずして天下を掌中にできるからだ。この計略にひときわ重要な役割をはたしたのが、黒田官兵衛と細川藤孝(後の幽斎)だった。


藤孝は義昭の旧臣であり光秀の与力大名なので、信長打倒の計画に深く関わっていたが、キリシタン勢力とも連絡を取っていた。妻の麝香がキリシタンだったので、本人も信仰に深い理解を示していたと思われる。
おそらく藤孝は義昭派の計略に加わりながら、その情報を宣教師たちにもらしていたのだろう。そして光秀を巧妙に誘導しながら、本能寺の変が起こった途端にキリシタン派に鞍替えした。
変の情報をいち早く秀吉に伝えたのは藤孝だったという『武功夜話』(偽書という説もあるが今は触れないでおく)の記述も、これを裏付けているように思えてならない。


本能寺の変に至る信長政権崩壊の原因は、キリシタン勢力との反目だったのか...

キリシタン勢力と旧勢力(室町幕府&公家)が手を組んだことが本能寺の変の裏側だったんだ。


B秀吉が天下を取った裏側について

黒田官兵衛は熱心なキリシタンだった。『黒田家譜』では触れていないが、ルイス・フロイスの『日本史U』(中公文庫)には、彼が死の直前まで信仰を保ち、「自分はキリシタンとして死にたい」と言ってロザリオを胸の上に置いてくれるように頼んだと記されている。


官兵衛が本能寺の変に乗じて秀吉に天下を取らせることができたのも、関ヶ原合戦の時に豊後で独自の軍勢を編成できたのも、キリシタン勢力を動かせる立場にいたからである。……(中略)……ところが江戸時代にキリシタン弾圧を行ない、こうした史実を消し去ってしまったために、官兵衛の本当の姿が見えなくなってしまった。弊害はこればかりではない。江戸時代の史観によって戦国時代史を語っているために、本当のことがほとんど分からなくなっている。その史観の中核を成しているのは、鎖国史観、士農工商の身分差別史観、農本主義史観、儒教史観である。


光秀が信長を首尾よく討ったとしても、当時大坂には織田信孝を大将とする四国討伐軍三万がいた。もしこの軍勢が光秀軍一万三千に襲いかかったなら、計略は瓦解するおそれがある。
そのことに不安を覚えた前久は、ひそかに秀吉に密使を送って抱き込もうとした。秀吉はいったんこれに応じたものの、土壇場になって信孝軍とともに光秀を討てば天下が転がり込んでくると算盤をはじいた。
そこで前久の計略に加担しているふりをして毛利軍と和睦し、中国大返しにかかった。そう考えれば、毛利軍が秀吉軍を追撃しなかった理由もすんなりと納得できるのである。


秀吉は朝廷を中心とする旧勢力の策謀で信長が殺されたことを知り、それで朝廷と近衛家を脅して、口止め料として関白の位を得て天下を取ったみたいです。

また、秀吉の軍師である黒田官兵衛や細川藤孝が出世していくのは、キリシタン勢力を活用できたからだとか。

まさに目から鱗でした...

以上の他にも、千姫もキリシタンではなかったかとか、関ヶ原の戦いにおける吉川広家の態度も彼がキリシタンであり黒田官兵衛がゴッドファーザーだったからではないかとか、もっと商業と流通に焦点をあてて戦国時代を見ないといけないとか、いろいろ興味深い視点を提供してくれました。

もっとこの著者の本をいろいろと読みたいと思いました。






posted by スイス鉄道のように at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | 雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

にほんブログ村