2020年02月15日

大森曹玄著『禅の発想』を読んで

大森曹玄著『禅の発想』を読みました。

既に亡くなられた方ですが、この本は、禅の大家であり、神道の知識もあり、剣道なども修めた日本古来の古き良き文化の体現者でもある大森曹玄氏の思想のエッセンスが詰まった名著だと思います。

禅の発想 - 曹玄, 大森
禅の発想 - 曹玄, 大森


私はキリスト教徒(カトリック)ではありますが、この方は上智大学を通じてカトリックの人脈もあり、それがきっかけで出来たのがこの書だといいます(以下、引用)。

上智大学の門脇住吉教授は、私の道場で長く参禅し、キリスト教神父として禅の修行を終えた私の弟子である。ある日、彼の運転する車に乗せられて大学の熱海宿舎に行ったのは、一年程前だったと思う。神父を中心に数人の若い人たちと共に二、三日を過ごしたが、その時の談話を中心に集めたのがこの書である。


この本を読もうとしたきっかけは1月10日,1月17日の記事で紹介した安倍龍太郎氏の著作の中に言及があったからですが、いい出会いをしたなぁ、とひしひしと感じております。

また、この方は仏教だけでなく広く西洋の思想にも理解があり、”惜しい人を亡くした”というのはこのような人のことだと思います。

私がドイツのあるカトリック修道院を訪ねたときですが、その歓迎の辞を述べる院長は、「われわれカソリック教徒の願いは、神の恩寵による生命共同体を形成するにある」ということをはっきりといいました。こういう”生命共同体”という問題提起は、日本の宗教家にはあまりない点ですが、私は大いに共鳴しました。


私がヨーロッパに行って感ずるものには、フーコー博士やフィリップス教授に教えられるものと共通性があり、東西文化・霊性の交流―禅とキリスト教との接触という大きな目標を遂行していくことの重要さです。


西洋の知識人、教養人とも互角に渡り合う精神レベルの大森氏は、その言葉の一行,一行に噛みしめれば噛みしめるほど味が出てくる感じです。

死とは何か、修行とは何か、霊性とは何か...

珠玉の名文が詰まっているのがこの本であるといってもよいでしょう。

以下、深くうなづかせる文章をできるだけ引用してきてみたいと思います。

念とは今の心だといわれますが、私どもに意識がある限り、外界の事物にふれたとき念が起るのは当然で、むしろそれが意識の健全に働いている証拠だといっていいでしょう。石田梅岩や手島堵庵などの心学では、たとえば、暑いという外界の現象にふれたとき、暑いナと思うのは本心の働きで妄念ではない。それは本心の真と、外界の実とが一つになった真事だと申します。暑いとき、涼しくなればいいナ、などとおもうのは、邪心とか私心というものだといっております。


私はどこから生まれてきたか、無限の生命の系列をかみしめていなければ、私はありえません。無限の空間と生命を一つにしていなければ私はここにありえません。これを仏教では四恩といいます。一切衆生の恩です。


禅門では坐禅をすることによって、定力を練り、心を鏡のような状態にしてその澄みきった心境で物の真相を見る、それがいうところのいわゆる般若の智慧・観自在の力です。


坐禅は安楽の法門でこそあれ、けっして苦行ではありません。……(中略)……全身で学道するとき、親から生れたままの肉塊にすぎない”赤肉団”が、人間の”身”体として現成されるのです。


腹の中に一物もなく、ゆったりと解放された状態になった上で、是非・善悪などの相対的な想念を根こそぎ拭い去って、「思量することなし」という無念無想になります。


人間として何らかの誓願をもたないのは、的なしの矢を発するようなものです。いやしくも大丈夫たるものは、必ず決烈の志をもたなければなりません。


いったい未来というものは、未だ来らざる時間で、今はまだ現実にはないことはいうまでもありませんが、しかし現在そのものを規定する力をもつものとして、実在性をもつものともいえます。


いかがでしょうか...

いずれも含蓄のある深〜い言葉の数々が並んでいるように思います。






posted by スイス鉄道のように at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | 雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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