2020年02月26日

今谷明編著『三好長慶』を読んで

今谷明編著『三好長慶』を読みました。

戦国時代のマイナーな武将である三好長慶の最新研究を集めた論文集です。

三好長慶 - 今谷 明, 天野 忠幸
三好長慶 - 今谷 明, 天野 忠幸

従来は、室町幕府末期の混乱のなかで近畿地方一帯を一時的に押さえた梟雄という位置づけでしたが、最近はその優れた能力や政治的な業績が再評価されつつあります。

意外なことに、江戸時代初期では「天下人」のはしりとされ、イエズス会の報告書でも実力者として記されていたのだとか。

また、内部抗争の末に片方の側が織田信長と足利義昭を味方に引き入れるべく誘い込んだということもわかり、従来のイメージがこの本を読むことによって覆されました。

信長に先がけてキリシタンを保護し、その後のキリスト教人口増大のきっかけにもつながったらしいです。

三好長慶が予想以上に大きな存在だということがわかりました。

以下、要点となる箇所を引用してみたいと思います。

十六世紀中期、戦国大名にとって、主要な関心は天下統一ではなく、地域支配の安定・強化であった。足利将軍家の権力の回復は誰も望んでいなかったが、足利将軍家を頂点とする武家の秩序は、いわば「常識」であり、利用しても否定するものではなかった。そうした中で、三好長慶は単に広大な分国を支配しただけではなく、足利将軍家を利用することなく、五年間の長きにわたって首都圏を支配した。


三好長慶は、天王寺合戦(大物崩れ、一五三一)、「堺幕府」の崩壊(一五三二)の後に、曾祖父三好之長、父三好元長ら父祖の京畿での事跡を継承しながら、細川晴元政権の下で十七年間にわたって雌伏していた期間に、阿波・讃岐・淡路の本拠と連携して、京畿に独自の家臣団、地域支配体系を形成した。そして江口の合戦(一五四九)で細川晴元政権を崩壊させ、将軍足利義輝を近江に追放(一五五三)し、「戦国天下人」としての三好政権を樹立した。


永禄四年(一五六一)には、長慶・義長・久秀は義輝から桐紋の使用が許可された。……(中略)……桐紋は天皇が足利氏に使用を許可して以降、織田信長、豊臣秀吉、現在は内閣府が使用する、政権担当者として認知された者のみが特別に使用する紋である。……(中略)……長慶は義輝との和睦によって、幕府の秩序や権威に包摂されたのではなく、むしろ、その秩序を乱す身分違いの地位を占めていると認識されていた。


永禄三年正月に長慶は幕府に出仕して相伴衆に加えられ、さらに修理大夫に昇任し、子・義興は筑前守に任官した。この頃、長慶は幕臣やかつての主家さえ指揮下におさめ、将軍もその力に依存していた。同一月二十七日には正親町天皇の即位式に数万の拝観者が詰めかけている中、長慶の家臣ら百余名が烏帽子を冠り、警護にあたった。


仁木宏氏は、飯盛山城は各地の戦国大名の城と違い、軍事拠点というよりは法支配・文化政策の拠点であった、具体的には裁判を行ったり、連歌会を催したりしたとされる。


三好長慶は一五六四年に四十二歳で没するが、その理解と配慮によってキリシタンの礎が築かれた河内は四半世紀に及ぶ地上の楽園となり、『イエズス会日本報告集』や『フロイス日本史』に度々記述されるようになる。


戦国時代から江戸時代にかけて、三好長慶は戦国時代を代表する名将であった。……(中略)……『甲陽軍鑑』では、伊予や土佐にとらわれず、上洛して天下(畿内近国、現在でいう首都圏の意味)を支配せよという家老衆の忠言に従い、長慶は上洛して天下を治めたので、五畿内だけではなく近国の侍衆が長慶の旗下に集まり、彼らから慕われた。そのため、長慶と養子の義継の父子二代二十一年にわたり天下を治めることができたが、これは戦国乱世では稀有なことで、平和な時代に日本全国を三代にわたって支配することよりも素晴らしいことだと賞賛されている。


一七一八年から二〇年にかけて、シャトランがオランダで刊行した百科全書『歴史地図帳』の挿図「日本の統治者の変遷」では、内裏(天皇)・公方(足利氏)・三好殿(表記はMIOXINDONO)・信長・羽柴太閤様(豊臣秀吉)・秀頼・内府様(徳川家康)・徳川様と、政権の移り変わりが系統樹で示されている。


フェルナンデス(一五二六〜六七)の平戸発信マカオのイエズス会員宛の一五六四年の『書簡』には(ヴィレラの書簡が届いていなかったのでと前置きして)次のように報告している。……(中略)……「都の政治は三名の人物に依存している。第一の人は、公方様(将軍足利義輝)と称する全日本の王である。第二は、彼の家臣の一人で三好(長慶)殿と称する。第三は、三好殿の家臣で、名を松永(久秀)殿という。第一の人は国王としての名声以外に有するものがなく、第二の人は家臣ながらも権力を有している。また第三の人は第二の人に臣従し、国を治め、法を司る役職にある。


九条稙通は養女を長慶の弟の十河一存に嫁がせた上、後継者の養子兼孝(実父は二条晴良)の参賀について長慶に後見を任せるなど、親三好の姿勢を強く打ち出していた。そして、弘治四年(一五五八)二月二十八日、正親町天皇は、将軍足利義輝に一切相談や通告をすることなく、永禄に改元した。……(中略)……その一方で、正親町天皇は五月九日に、当時の日本を代表する儒家である清原枝賢や公家の万里小路惟房を通じて、三好方へ改元に関する返答書を遣わしていることから(『惟房公記』)、長慶とは相談や通告などが行われていたのであろう。


天皇家や摂関家との直接のつながり、桐紋の使用、管領並みの従四位下修理大夫への任官、首都機能を備えた飯盛城の築城と政権運営...

まさに、三好長慶は飯森山城を拠点に天下を取ったのだといえます。

後継者については、実子(義興)を夭折して失った後は弟の十河一存の子で摂関家の養女の子でもある義重と定められ、スムーズな世代交代と継承も予定されておりました。

ところが...

三好長逸や松永義久(後の久通、久秀の息子)を率いて再度上洛した義重は、翌十九日に義輝を討った。松永久秀が義輝を殺害したように後世評価されているが、それは事実ではない。この時、名儒の清原枝賢が義久の軍に従軍していた点が注目される(『言継卿記』)。枝賢が軍事的奉公をするためとは考えにくい。むしろ儒教に基づく易姓革命の思想で、義輝の殺害を正当化しようとしたのではないか。この事件について、太田牛一は長慶の死を知らず、「天下執権」である長慶に対し、義輝が「御謀反を企て」たためと、三好方の主張を『信長公記』に記している。義輝は長慶の死を知っており、それに乗じて三好氏の排斥を企てたので、義重が機先を制して、義輝を討ち果たしたということになろう。


足利義輝を討った直後に、三好義重が「義継」に、松永義久が「久通」に改名したことが示唆的である。三好本宗家の当主が、武家の秩序体系において最高位に君臨する家の通字「義」を「継」ぐと表明したのである。


三好政権、特に長慶存命中の久秀を、三好家を凌駕し、三好家を滅ぼした者として評価することは、あくまで想像上のものであって、史実においては正当ではない。ただ、強いていうならば、長慶の死後、三好家の力のバランスが、長慶の三好本宗家から、長慶の弟の実休の系列である阿波三好家に傾いていくにつれて、久秀は、次第にこの阿波三好家系の勢力と対立するようになる。


やがて三好三人衆や篠原長房への反発から、永禄十年(一五六七)二月に、義継は松永親子方に身を投じた。畿内の対立の構図は、三好三人衆・篠原長房方と三好義継・松永親子方の争いとなったが、三人衆方の優勢は変わらなかった。そこで、久秀は八月頃より織田信長との連携に踏み切った(『柳生文書』)。永禄十年(一五六八)の信長の上洛は、義継と久秀自身が招いた結果であり、後に大きな失敗であることが判明したことは言うまでもない。


天下人・三好長慶の死を契機として、傀儡将軍義輝 V.S. 長慶の後継である義重(のちの義継)の対立が生じ、前者が滅び、その後は三好政権内部の抗争に陥ります。

その際、片方の側の松永久秀が織田信長と足利義昭を援軍のつもりで畿内に招き入れ、それが予想外のサプライズをもたらし、織田信長政権へとつながってゆく...

織田信長は運良く機会をとらえただけだったような気がしますし、反面、長慶の後継者(義重(のちの義継))が将軍(義輝)を討ち果たしても世間も朝廷もそれを咎めず、三好長慶政権の巨大さが私の視界によりはっきりと入ってくる感じがしました。これが読後感でした。






posted by スイス鉄道のように at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | 雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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