2018年05月13日

資本主義の解明に独特の方法で迫る「〈世界史〉の哲学」シリーズ...

大澤真幸著『〈世界史〉の哲学』シリーズを読んでいます。

著者は東大卒で元京大教授の社会学者です。

現在は、思想誌「THINKING「O」」を主宰されているとのこと。

公式サイトはコチラ...
↓↓↓
http://osawa-masachi.com/


『〈世界史〉の哲学』シリーズは、雑誌『群像』に連載されている著者の論文を発表順にまとめたものです...

内容は、資本主義がなぜ成立したのか?、それも、西ヨーロッパでなぜ発祥したのかを問いとし、その解明にあたって、思想面からひもといていこうという試みになっています。

古い時代から現代へと移り変わる思想の流れとともにその命題を追っていくため、自然と古い順からの記述になっています。

私は、古代篇、続いて中世篇と読み進めました...

<世界史>の哲学 古代篇
<世界史>の哲学 古代篇

<世界史>の哲学 中世篇
<世界史>の哲学 中世篇


まず、著者は、以下のように命題を立てます。

ただ西洋のみが、真にグローバル化したのである。イスラムや仏教などの「世界宗教」の広がりがどこかで限界に到達するのは、それらの世界宗教が、己の普遍性を謳っていたとしても、なおその起源となったローカルな共同体の文化的な特殊性の痕跡を―確かに稀釈させてはいるけれども―ついに消去しつくすことができなかったからである。


西洋という文明だけが、地球的な規模の影響力を発揮した。その結果こそ「近代」にほかならない。


そしてその原因を、通説にしたがって、西洋文明の原点がヘレニズム(ギリシャ文明)とヘブライニズム(ユダヤ・キリスト教)に立脚している点に求めますが、同じキリスト教とギリシャ文明の伝統を持つ東ヨーロッパではなぜ資本主義が生まれなかったのか、なぜ西ヨーロッパだけで資本主義が生まれたのかについて、懇切丁寧に迫っていきます...

その結論としては、カトリック教会の教義にあるというのが著者の説明です。

以下、大事な箇所を引用します。

神の子であるイエス・キリストの死後には、聖霊以外には、人間が神との繋がりを確認しうる手段はないので、その重要性は圧倒的である。


カトリックにおいては、父と子の間の対等性と同一性を、つまり両者の差異と同一性とをともに確保しようとする強い指向性が作用している。


どうしてキリスト教だけが(カトリックだけが)、二種類のパラダイムを有することになったのか? 言い換えれば、どうしてキリスト教の神は、代務者を媒介にして恩寵を諸個人に送り届けるのか? 神は、なぜ、恩寵を直接配分しないのか? キリスト教にだけ、キリストがいるからである。


われわれとしては、聖権と俗権の拮抗的な二元性は、西洋中世が、父なる神と子なるキリストとを対等な契機として維持したことにその究極の原因を見るべきであろう。


ジャック・ル=ゴフは、初期中世の社会的文脈の中からのみ生み出されるような「都市的事実」がある、と述べている。これらの研究者が一致して認めていることは、次の諸点である。中世の中世たる所以が、都市において集約的に現われているということ。中世都市は、古代都市の単純な発展や継承ではなく、それ独自の固有性をもっているということ。


キリストという個人なしには、神と聖霊とは繋がらない。ところで、今、中世都市で崇拝された聖遺物や聖人が、キリストの身体の代理であるとするならば、三位一体の教義の中で観念的に説かれていたことが、中世都市では、現実の社会過程として出現していることになるのではないか。聖霊の代わりに中世の都市共同体や、都市の間を移動する人々の連帯を置いてみれば、ここでは、まさしく、キリストの身体(の代理物)が、普遍性を指向するそれらの共同性の紐帯として機能しているのである。


中世中期の人物、聖ゴドリクは、まさに商人であり、かつ巡礼者である。一二世紀後半の聖人伝によれば、聖ゴドリクは、一一世紀末にイングランドの貧農の家に生まれたが、商業の世界に魅力を感じるようになる。


キリストの身体、キリストの死んでも死にきれない身体は、〈求心化―遠心化〉の作用を常に活性状態に保つ触媒のようなものではないだろうか。つまり、キリストの身体は、即自的には神として現われ、対自的には聖霊として捉え直される共同体を、普遍的な連帯の可能性へといつまでも開いておく媒介なのである。


中世という社会の謎は、ひとつの死なない死体の内に集約されている。この死体を目指していた巡礼の旅が、その具体的な目標を解消し、外部へと一般的に開かれたとき、いわゆる「大航海」が始まり、資本主義の本格的な展開期に入る。


キリスト教会(カトリック教会)は、西ヨーロッパの全体を包括する一つの法共同体として成立した。この教会こそは、ルジャンドルによれば、近代国家の範型となった。


坂口ふみによれば、三位一体論の最大の成果は、「個体」の概念を産み出したことにある。個体の概念が、今日では神学や宗教とは独立に用いられている「人格person」の語に受け継がれ、反響している。


フーコーは、中国、インド、日本、アラブ等の他地域でそれぞれに見出される「性愛の術」に代わって、西洋だけが固有に「性の科学」を発達させたという事実に注目した。西洋にだけ「性の科学」が出現したのはなぜなのか? フーコーによれば、「性の科学」を可能にしたのは、「告白」の伝統である。


信者は、聴聞僧に対して、そして究極的には神に対して、徹底した執拗さで、自己について、自己の罪について、自己の欲望について告白しなければならなかった。


告白への要請に従うことの結果として個人が主体化する、というのがフーコーの立論である。性は告白の中心的な主題である。



以上の論をまとめると、次のようになるかと思います...

キリスト教の正統信仰は三位一体論ですが、東欧で信仰されるギリシア正教は「聖霊は父からのみ出る」のに対し、カトリック教会では「聖霊は父と子(キリスト)から出る」と教義を変更...

この結果、”キリスト”は父である神と同格と位置づけられ、巨大な存在へと化します。

それが、聖なる権力(教会)と俗なる権力(王侯貴族)という権力の二元性につながりますが、これが最終的には三権分立の考え方につながり、民主主義社会を準備するきっかけとなります。

また、キリストの代理としての、西ヨーロッパにだけ見られる聖人信仰へと結びついてもいきます。

キリストは聖書によると死んだあと復活し、死体は消失したため、キリストの遺灰や遺骨に代わるものとして、人々の意識のなかで、カトリック教会が聖人と認定した者の遺骨がその代わりを果たすようになっていった...

結局、聖人信仰は、聖人の遺骨などを各教会や各都市で祭ることにつながり、それが西ヨーロッパ各地に巡礼のネットワークを形成し、さらにそれが都市間の商業ネットワークの育成につながっていった...

また、同じくカトリック教会では、信者は神父を通して神に己の罪を告白しなければならないとされています。

罪の主たるものは過剰な欲望、特に性的欲望なのですが、この神に向かって己の罪を告白するという姿勢が、自我や個人というものを強く意識させ、それが個人主義や人権といった概念につながっていった...

以上が、西ヨーロッパにのみ資本主義が誕生した歴史的経緯だということです。

なかなかうなづけるところが多い考え方だと思います。

必ずしも著者が自分で考えた思想ではなく、他の学者の考え方をふまえているため、説得力も高いと思われます。









posted by スイス鉄道のように at 07:00| 東京 🌁| Comment(0) | 気づき・ヒント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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