2018年09月20日

中田力氏の日本古代史の著作2冊を読んでの感想(後編)

昨日の記事からの続きとなります...

今日は、中国から日本にたどり着いた弥生人たちがどのように日本の古代史を形成したか、そして邪馬台国はどこか、その後の大和朝廷が生まれた経緯などを書きたいと思います。

まずは、金印で有名な奴国、そして邪馬台国建国の推理です。

博多の奴国は、中国本土からの難民が建てた国であり、姫姓の王族・貴族が打ち立てた国であったからこそ、中国皇帝に朝貢し、冊封を受けることを望んだのである。……(中略)……呉の難民が渡来してから国を作り上げ朝貢を果たすまで、約五百年の歳月が必要だったことになる。


志賀島に古代よりある志賀海神社はその地を支配した阿曇族の祖神、綿津見神を祀っている。綿津見神は、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三神の総称で、天照大神や素戔嗚尊の禊と同じく、伊弉諾尊の禊の折に産まれた神である。つまり、天照大神と素戔嗚尊の時代には、志賀島を中心に綿津見神の勢力があったことを意味している。これが、博多の奴国であった可能性は極めて高い。


邪馬台国が金印を賜った年よりも約四百五十年前に、金銀財宝と機能集団三千人を引き連れて渡来したと考えられている貴族の一団が存在する。秦の始皇帝の時代、徐福に率いられた若き貴族たちである。時代背景を見る限り、邪馬台国はその末裔が建てた国である可能性は極めて高い。


礼を心得て皇帝に向かい、認められて冊封を受けるまでに到達するには、それなりの教育を受けた人々の存在が必須である。つまりは、王族、貴族の存在が必須なのである。博多の奴国が姫姓王族の渡来により金印までたどり着いたように、邪馬台国にも王族、貴族が存在する必要があった。それは、徐福の連れた若き貴族たちだったのだろう。


徐福が道士であったことを考えると、卑弥呼の鬼道は道教由来である可能性が高い。


非常に大胆な推理ですが、昨日の記事に書いた遺伝子学(ヒトのY染色体、およびイネ)の成果と合体させて考えれば信頼性が高まります。

次に、邪馬台国の位置ですが、著者は科学者らしく、地理学的な観点からその位置に迫っています。

「魏志倭人伝」の奴国と博多の奴国が同じであったという保証は全くない。実際のところ、皇帝側でさえも国家名が「漢」から「魏」と変化しているのである。


自分たちの船で行けるところは、おそらく自分たちの船で移動したと考えた方が素直である。前原市も福岡市も海岸沿いにある。この程度ならば「水行」したに違いない。それを「陸行」したのである。船は唐津に残し、伊都国まで「陸行」したからには、伊都国が簡単に「水行」できない場所にあり、「陸行」が有利であったと考えなければ合わないのである。


「魏志倭人伝」に記された伊都国への道筋に最も適合した経路を検索してみると、すぐに、唐津街道と呼ばれる唐津から多久に抜ける山道であることが判る。


邪馬台国より北にある国を管理するためには、その監察官を北の玄関口に配置する必要があったのである。地形を見ると、唐津は三方を囲まれた、女王国連合国家の港とするには最適な場所であり、そこから抜ける唯一の陸路とも言える細い街道が唐津街道である。


唐津駅から三〇キロメートル先の地点まで辿ると、東多久駅を少し過ぎたところに到達する。そのあたりを地形図上で検索してみると、ちょうど、山道から平野に抜ける寸前の、ちょっと開けた土地であることが判る。つまり、自然の関所のような場所なのである。ここに小さな集落を作れば、通過するものすべての管理が可能となる。「魏志倭人伝」の記載は、伊都国を、まさにそのような機能を持った特別の場所であると記載している。


東多久から小城に向かって山道を抜けると、目の前に広がるのは広大な佐賀平野である。そこに、奴国と不弥国があった。


卑弥呼(天照大神)が健在だった時代は、天孫降臨以前であるから、宗主国の座は失ったものの、綿津見神の国(博多の奴国)もまだ健在だったと考えられる。だとすると、邪馬台国までの道が「魏志倭人伝」に書かれたようなルートを辿ったことも理解できる。力が弱まったとはいえ、まだ、博多の奴国は存在し、邪馬台国との完全な融合はなされていなかった時代なのである。


ここがキーポイントであり、魏志倭人伝が言う伊都国は現在の糸島半島ではないということ、および、魏志倭人伝が言う奴国は金印の奴国とは違う国だということの2点が袋小路に陥っていた我々の今までの思考の”霧”をはらってくれるんです。

地政学的解明に記紀の記載との融合をして考えをすすめる著者の炯眼に改めて感服しました。

以下、著者がいう邪馬台国までの道のりを示します。

鍵は、不弥国から投馬国まで魏志倭人伝は水行すると記していること、投馬国が戸数の大きい国、つまり大きな平野にあるということ、および、邪馬台国もまた戸数が多く、平野にしか設定できないこと、そして、昔の時代ですから地形的に難行するような経路はとらないだろうという極めて妥当な前提にあります。

不弥国には千余家しかない。帯方郡からの一行が不弥国に移動する必要があった理由は有明海だろう。不弥国は船着き場として重要であったに違いない。


熊本以南の九州西海岸で、「水行」で到達できる適当な平野は存在しないのである。投馬国は熊本近辺にあったのである。


船がそれほど大きくなければ、八代付近までは簡単に「水行」可能である。そこから、「陸行一月」が始まったと考えて、ほぼ間違いない。


明治維新後国家が整備した官設鉄道の走行は、当時の地形を知るのに極めて役立つのである。当時の技術は現在の新幹線作りとは違い、地形に敏感だったからである。……(中略)…… 一八九二年六月二十一日に公布された、国が建設すべき鐵道路線を定めた法律「鉄道敷設法」によれば、湯前駅から妻線の杉安駅までの延伸が計画されていたのである。……(中略)…… 結ぶ計画だったということは、それが当時の技術で可能であったとことを意味する。言い換えれば、山越えが比較的容易であったことの証明となるのである。


到達地は宮崎平野、日向灘の地である。邪馬台国は日向灘に面したこの地にあったのである。


邪馬台国は宮崎!、だったんですね。

ここには西都原古墳群などもあり、神武天皇のゆかりの地と語り伝えられているので、うなづけます。

もちろん、神武天皇は邪馬台国の後継者であり、ここから東征に出発したと著者は説いておられます。

まだまだ紹介したい箇所はあるんですが、長くなりすぎるので割愛させていただきます。

ご興味をお持ちになった方はぜひ一読をば。








posted by スイス鉄道のように at 07:00| 東京 🌁| Comment(0) | 雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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