2019年05月10日

サンスティーン著『熟議が壊れるとき』を読んで...

キャス・サンスティーン氏の著作『熟議が壊れるとき』を読みました。

著者はそうそうたる経歴を持つアメリカの法学者でして、この本を読んだあと、アメリカのというより、人類の未来にとってかけがえのない人物だという印象を持ちました。

以下、あとに付いていた訳者の解説からの引用です。

キャス・ロバート・サンティーン(Cass Robert Sunstein)は、一九四五年マサチューセッツ州コンコード生まれ。二〇〇九年よりハーヴァード・ロー・スクールのフェリックス・フランクファーター法学教授、同年秋より合衆国政府の行政管理予算局の情報・規制問題室(Office of Information and Regulatory Affaris:OIRA)の責任者をつとめている。ハーヴァード・ロー・スクールを卒業後、現職に至るまでの間、マサチューセッツ最高裁判所B・カプラン判事および合衆国最高裁判所T・マーシャル判事の法務書記、司法省法律顧問室(The Office of the Legal Counsel)の法律アドヴァイザー(attorney-advisor)を歴任し、ウクライナ。ポーランド、中国、南アフリカ、ロシアなどの憲法制定・法制度整備支援事業にも携わった。一九八一年から二〇〇八年までシカゴ大学ロー・スクールに在籍した。


熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論
熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論


この本が訴えるところは、価値観の多様化・多元化の必然的な帰結として、議論の白熱化とカオス化(混沌化)、さらにはそれが「集団極化」という極端な結論に達する危険性にスポットライトを当てています。

例によって引用しつつ紹介したいと思います。

相反する二つの教訓がある。すなわち、熟議を行う孤立集団は、不当に抑圧された見解を発展させるための基盤にもなりうるし、筋の通らない極端主義、実質上熱狂ともいうべき状況を生み出す基盤にもなりうるのだ。


集団的決定において感情的要素は非常に重要であり、そこを操作すれば、極化は顕著に増大したり減少したりする。感情的な紐帯によって集団構成員が結びついていると、反対意見の出てくる頻度は大きく減少する。……(中略)…… それゆえに、人は、ある立場を擁護しているのが友好関係にない集団構成員である場合、その立場の方に意見を変える可能性が低いのだ。


集団極化は、「退出」すなわち構成員が事態の向かう方向性を受け入れられないとして集団を抜けることによっても活性化しうる。退出する人が増えると、極端主義へ向かう傾向はさらに深刻なものになる。


さまざまな確執にみられる特徴の一つとして、他と不和を生じている集団の構成員たちは、集団の内部だけで会話する傾向があり、それによって自分たちの怒りを煽り増幅させ、関連するさまざな出来事について凝り固まった見方をするようになる。ここでは、情報の圧力、評判の圧力が強く作用し、カスケード効果を生む。


集団極化が強まる可能性があるのは、人々が匿名で話し、かつ、あれこれの手段で、集団の構成員たる資格について注意を促しているような場合である。インターネット上の討議集団の多くは、まさにこの特徴を有している。インターネットは、多くの人々によって、極端主義の温床なのである。


集団極化は、正しい答えを導く最善の方法が熟議だという広く一般に流布している見解に対して、重大な疑問をはっきりと投げかけるのである。もし、熟議の結果、もともとの傾向がより極端になるのであれば、熟議のどこに賞賛すべき点があるのだろうか。その基本的メカニズムについて考えても、確信にいたるほどの理由はみつからない。


読んでいてまさにその通りだと思いました。

同じ想いを共有する小集団の暴走化は、たとえばアイドルファンの集団なんかに見られますね。特に、インターネット上でそういう傾向がみられます。

フランス革命やロシア共産革命の暴走などもこれによって説明がつくかもしれません...


一方で、この特徴を社会にとって有意義に活かすことも著者は語っています。

それは、アメリカ伝統の共和主義との関わりにおいて、その欠点を補正するものとして、です。

政治的に有利な立場の追求は一般に共通善への訴えを通して行われる―たとえそうした訴えが、皮肉な調子で見え透いていたとしても。


共和主義の基本的信条―政治的平等、熟議、普遍主義、市民活動―は、米国立憲主義の中心点で際立った役割を演じてきた。


無産階級、黒人、女性などを排除するさまざまな戦略が、共和主義の伝統のなかに組み入れられていた。共和主義は共通善をめぐる熟議に信頼を寄せているが、それはこうした排除の実践と密接に結びついており、きっぱりとは切り離せない。


創設者たちが描いた代表観は、徳性や熟議といった政治的価値への伝統的共和主義の信念を組み入れていたのである。


多元主義の想定のもとでは、共通善の観念は、神秘的であるか圧政的であるかのいずれかである。


アメリカ建国〜公民権運動が盛んになるまで、アメリカの主流の価値観は共通善の存在・尊重と代表制を通じた共和主義でした。その結果、黒人や女性を始めとした少数者には参政権が与えられなかったりして抑圧されていました。

その、一種の大選挙区制&共和制の欠点が、少数者の集団を公的に認め、尊重し、「集団極化」にもとづく彼らの声を挙げさせることで、少数者の意見が国政に反映される可能性を高めると言うのです。

劣位集団に属する構成員たちは、より広い範囲の集団を含む熟議体のなかでは、沈黙したり沈黙させられていたりする可能性が高いということである。孤立集団内で生じる集団極化は、まさにこのような問題を相殺するものとして作用することである。


集団代表制の主眼はあるプロセスを促進することにある。このプロセスのなかで、孤立集団内の人々は他の人々の発言を聞く。そして、他の孤立集団に属する人々、あるいはそのような集団にまったくかかわっていない人々は、自分たちとは大きく異なる見解に持ち主たちの声を聞くことができる。以上のような形で、私的制度や公的制度のなかにさまざまな集団の代表者が存在する状況になれば、そうでないと人々の耳には届かなかったはずのさまざまな見解が公の場に出ることを促すだろう。


少数者同士の小集団が「集団極化」を起こし、その意見が集団代表制によって政治や社会に反映されれば、それは良い方向に働く、とも著者は言っているわけです。

この本では、この他にもアメリカの司法制度の実態やその問題点などについて論じています。

まだまだ紹介したいこともありますが、長くなりすぎるため省略いたします。もしご興味あれば、どうぞお読みください。








posted by スイス鉄道のように at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | 分析・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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