2019年10月15日

明智憲三郎著『光秀からの遺言』を読んでの感想

9月24日の記事で明智光秀を主人公にした漫画について書きましたが、そこで紹介した『光秀からの遺言』という単行本を図書館で借りて読みました。

著者は明智光秀の子孫だと自称しておられる明智憲三郎氏です。

光秀からの遺言: 本能寺の変436年後の発見
光秀からの遺言: 本能寺の変436年後の発見

この本では、光秀のルーツ探しから始まって、真実の経歴の解明、そして徳川家康と信長の隠された対立構造と、それが本能寺の変に密接に関わっているという推理が語られています。

なかでも、光秀に関して流布されている通説の大半が江戸時代に流行った軍記物(要するに創作)に基づくものだという指摘がいちばんタメになりました。

例によって引用してみます。

光秀の母親が八上城で処刑されたり、信長が齋藤利三を稲葉一鉄へ返せと言って光秀の頭を叩いたりするのは軍記物の創作であり、信憑性ある史料には一切書かれていない。


光秀の人物像は軍記物の創作が基本となって、現代の小説やテレビ番組が繰り返し描いて、ひとつの定型を作ってしまっている。気弱な優等生、堅物、真面目、内向的、人付き合いが下手、線が細い、融通が利かない、など秀吉とは対照的で信長ともまったく違う性格といったところだろう。
ルイス・フロイスが『日本史』に書いた光秀像はこれとは異なる。
その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあっては彼は余所者であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。
彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また、築城に造詣が深く、優れた建築手腕の持主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。
彼は誰にもまして、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないように心掛け、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自らはそうでないと装う必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えたほどであった。また、友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していた。


実は怨恨説の根拠とされるエピソードは、すべて軍記物の創作ということは歴史学界でもすでに認知されている。


永禄十一年の上洛時の光秀の身分は、細川藤孝に仕え、幕府の役人としては足軽衆であった。そのことはイエズス会宣教師のルイス・フロイス、奈良興福寺多聞院の院主・英俊、医師で儒学者の江村専斎といった光秀と同時代を生きた人物の証言と義昭の役人名簿で明らかである。少し時代は下るが、一六〇〇年代に活躍した軍学者で儒学者の山鹿素行、肥前平戸藩主・松浦鎮信の証言でも裏付けられる。『明智軍記』が刊行されて広まるまでの百十年間は、それが世の常識だったのだ。


四月になると光秀は、羽柴秀吉・丹羽長秀・中川重政といった信長の家臣と連署状を多数発行している。……(中略)……連署の順は「秀吉・長秀・重政・光秀」が三通、秀吉と長秀の順が入れ替わった「長秀・秀吉・重政・光秀」が三通で、光秀はいずれも最後に署名している。連署の順は実務担当者が初めに署名して、順に上位者が署名していくものであるので、光秀が最も上位者ということになる。仮に上洛前に信長に仕えたとする定説に従うと、新参者の光秀がこの時点で最上位となったことになるが、それは考えられないことだ。幕府の役人として最後に連署したと考えるのが素直な答えとなる。


義昭の直臣となったのであるから、当然義昭から所領を与えられたとみるべきだ。それを裏付ける文書がある。永禄十三年に比定された四月十日付の教王護国寺が光秀の八幡宮領山城久世荘の押領停止を幕府に申請した文書である。義昭が光秀に与えた所領の中に教王護国寺の所領が混じっていたということであろう。


光秀はかなり後々まで信長の家臣ではなく幕臣だったんだそうですね。目を見開かれる思いがしました。

また、明智光秀を討って天下をとった豊臣秀吉のでっちあげ情報も真実をゆがめているんだそうです。

秀吉が家臣に書かせた『惟任退治記』や秀吉自身の書いた書状には、摂津衆と共に秀吉の軍勢が光秀軍を切り崩したと書いている。しかし実際は、秀吉軍本隊は勝敗の決した後に参戦し、敗残軍の掃討や勝龍寺城の包囲・攻撃を行ったのだ。


さらには、信長が足利将軍の権限を犯したと言われている通説も、足利義昭から正規に政権を委託されていたらしいことが記されていました。

「天下の儀を信長に任せ置いた」という記述は前年十月に信長が伊勢を平定して、そのことを義昭に報告した際、「天下の儀仰せ聞かる」と『信長公記』に書かれていることに対応している。信長は幕府の政務の権限を義昭から委託されていたのだ。


史料をふまえ、一歩一歩、真相解明に近づこうとする姿勢に好感を持ちました。

この方の他の著作も読んでみたいと思いましたし、今後の新刊にも期待したい気がしました。






posted by スイス鉄道のように at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | 雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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