2015年08月10日

インデックス投資家を批判してみる

8/4の記事に、”健全な野党がいてこそ、健全な民主主義は機能する”と書きました。

なぜならば、”健全な野党がいてこそ、健全な批判”ができるからです。

そもそも資本主義社会は、民主主義を前提として成り立ちます。

それは、民主主義は、”自由”を担保するからです。

投資の自由、株主総会で経営者を批判する自由、市場における自由な取引、経営方針の自由、新規ビジネス参入の自由、もうからない分野からの撤退の自由などなど...

これらが自由に出来ないと、旧ソビエト連邦のように、経済は停滞し(特に物流,サービスの硬直化)、経営の過ちもただされません。

東芝のような事態が起こっても、もし国家権力(≒旧ソ連共産党など)によって言論の自由が抑圧され、明るみにでないと、そのまま放置されて大変なことになります。

言論の自由によってマスコミから適切な報道がされることで、東芝の内部的な悪は明るみに出、それを修正する道が開けたのです。

そうすると、言論の自由に裏づけられた「批判の自由」が重要になってきます。

そもそも、”人間”というものは過ちを犯す生き物です。

経営者は、天使や聖人ではありません。

なので、株主総会での健全な株主の批判が、資本主義における効率的かつ健全な経営を維持するためには欠かせないのです。

実際に株主が総会で批判を行うかどうかは別にして、
”株主が経営者を批判できる権利”を確保しておくだけでも、経営者の日々の経営行動に対する心理的プレッシャーになるものです。

だから、投資家(≒株主)が株主総会に出て健全な指摘をすることは、資本主義社会を成り立たしめるための「義務」であり、「責任」です。

しかし、インデックス投資家は、この義務と責任を放棄しております。

したがって、インデックス投資家は、この点において罪深いと私は考えます。

この私の考え方と同じ意見なのが、アメリカの有名なファンド・マネージャーである、ビル・アックマン氏です。

彼は、もちろん、アクティビストであり、「物言う株主」として著名です。

『リスク・テイカーズ』(川上譲著、日本経済出版社)に、8人のカリスマ投資家の1人として出ております。

インデックス投資家が世の中の主流となり、さらにそれが拡大していくと、各企業の経営者は、やりたい放題の経営をするようになってしまう...

彼は、このように語ります...

私もその通りだと思います。

インデックス投資家が世の中の大多数を占めてしまうと、国家ごと倒産してしまった旧ソビエト連邦のようになってしまうと思います。

なぜなら、企業のトップという存在は、その会社の中では王様ないし独裁者ですから。

今回の東芝の事例を見れば、明らかじゃないですか。

だから、誰からも批判されないと、やりたい放題に経営するようになりがちです。

その王様ないし独裁者を唯一、立場上、凌駕できるのが株主(=投資家)です。

だからこそ、私は株主総会にも出るし(批判したことはないですが)、個別株投資もやめたりはしないのです。

もちろん、これからも続けますとも...
アクティブに個別株投資をすることを...
そして、株主総会にも出ることを...

インデックス投資のパフォーマンスがアクティブ・ファンドを凌駕する、というインデックス投資家さんの主張は、過去の市場データからの結論としては理解はしますが、人間の生き方って、”金儲け”だけでいいんですかね?

民主主義社会と資本主義社会に生きる良き市民としての、義務や良心に反していないのかどうか...

考えてみて欲しいです...

昨日,おとといの記事に書いた、「会計の原点は良きキリスト教徒の良心から生まれたもの」だという原点に思いをはせつつ、もう一度良く考えて欲しいです...





リスク・テイカーズ ―相場を動かす8人のカリスマ投資家 -
リスク・テイカーズ ―相場を動かす8人のカリスマ投資家 -



posted by スイス鉄道のように at 07:00| 東京 ☀| Comment(2) | 投資哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月09日

改めて東芝不祥事から思う「会計の原点」について...(後編)

昨日からの続きの記事となります...

今日は数か月前に読んだ本の紹介をしたいと思います。

その本は、ジェイコブ・ソール著『帳簿の世界史』(文藝春秋)です。

ごく最近、刊行されたものですから、入手は容易です。

帳簿の世界史 -
帳簿の世界史 -


大学を卒業し、社会人になってからも、私は会計関連の書籍はときどき読んでおります。

会社から命じられている仕事は違えど、本来の専門分野ですからね...

昨日紹介した書籍も含め、せっかくの盆休みなので、投資家の皆さんはこういった固い本を読んでみてもいいのではないでしょうか。

さて、この本の中では、会計の歴史についていろいろと語られているわけですが、なかでも興味深いのは、”複式簿記”の誕生についての推理です。

現在、通常の一般企業では、単式簿記ではなく、必ず複式簿記が使われているわけですが、これは人類最大の発明だと賞賛する有識者もいます。

それは、かの有名な文豪ゲーテです。

彼は、『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』(岩波文庫)の中で、こう言っています。

『真の商人の精神ほど広い精神、広くなくてはならない精神を、ぼくはほかに知らないね。商売をやってゆくのに、広い視野をあたえてくれるのは、複式簿記による整理だ。整理されていればいつでも全体が見渡される。細かしいことでまごまごする必要がなくなる。複式簿記が商人にあたえてくれる利益は計り知れないほどだ。人間の精神が産んだ最高の発明の一つだね。立派な経営者は誰でも、経営に複式簿記を取り入れるべきなんだ』

そんなユニークでかつ素晴らしい発明品である複式簿記ですが、ひょっとしたらキリスト教の教義から生まれ、そして発展したのではないかという推論が、上記の著作の著者の主張です。

以下、引用です。

『富と信心の両方を追求する中世の商人にとって、利益は悩ましい問題であった』
『中世の銀行家や商人には罪の意識がまとわりついていた』
『なにしろ当時は、金を扱う職業や会計慣行の大半は教会法に反していたからである』

人はパンのみにて生きるにあらず、と清貧を説くキリスト教は、金儲けを悪いこととしていました。

よって、中世ヨーロッパのキリスト教徒のビジネスマンは、神に対する心の負い目を感じ、それを一種の負債(「心の会計」としての負債)として認識していたようです。

『大方のキリスト教徒にとって、善行と悔悛に加えてキリストの血の代償によって罪を帳消しにでき、死後に煉獄であまり苦しまずに済むという教えは、会計の概念と接した初めての経験だったと言えるだろう。心の会計の借方と貸方と差引残高は、救済を得るために欠かせない』

『帳簿一式が事業別に作成され、最初のページには必ず「父と子と聖霊とすべての聖人、天使の名において」という宗教的な決まり文句が記されている。あるいは商人にふさわしく「神と利益の名において」と書かれていることもあった』

『ダティーニの帳簿の収支尻がつねに黒字であることは、神に対する負い目は増える一方であることを意味した。つまり帳簿は、利益を示すと同時に、罪の償いとして神に払うべきものも示したといえる』

『最後の審判を恐れるその信仰心こそが、会計を発展させたのだ』

つまり、金儲けが成功すればするほど、世俗的な罪は増えていく...

だから、死ぬ際には、”黒字”になった分だけ、その罪を、同等の善行で返さなくてはならない(帳消しにしなくてはならない)...

そのためには、会計帳簿をきちんとつけることで正確な黒字額を把握し、死後、教会に寄進する等、しなければならない...

敬虔な人ほど、そう考えていたそうです。

ダティーニというそのイタリア商人は、きちんと会計帳簿をつけ(現在も記録が残っているそう)、死後、プラート市の教会に一〇万フローリンが寄進されたとのことです。







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2015年08月08日

改めて東芝不祥事から思う「会計の原点」について...(前編)

東芝の会計不祥事が発覚してしばらく経過しましたが、私が心配しているのは、東芝自体よりも、海外投資家が日本企業に向ける視線です。

東芝以外にも、会計不正を隠している日本の上場企業はいないかどうか...

そう考える海外の投資家は一定程度いるのではないか、と心配になります。

アベノミクス開始後、せっかくここまで順調に上がってきた日経平均ですが、ここ最近値動きが冴えません。

その理由は、”夏枯れ相場といわれる8月”という理由だけではなくて、日本企業の体質に疑いがかかっているからというのも少しはあるかもしれません。

そもそも、今の”会計システム”(複式簿記の仕組み)というものは、1万円札の肖像にもなっている福沢諭吉が明治時代にヨーロッパから輸入したものです。

その際、単なる帳簿への記帳の技法だけを輸入して、その”精神”までは学ばずに今に至っているように思います。

私の学生時代の専攻が会計学ということもあり、ここで会計の原点となる歴史や思想を紹介しておきたいと考えます。

参考となるのは、アーサー・ウルフ著『ウルフ会計史』(法政大学出版局)...

今は絶版となっていまして、私は大学の図書館で借りて読みました。

入手できるものなら、次の書籍...

テン・ハーヴェ著、『会計史』(税務経理協会)

Amazonで、古書なら手に入りそうです。

私は有用だと思った書籍について、要所を抜粋してパソコン保管しています。
あらためて、その抜粋集を読みなおしています。

近代会計システムの萌芽は、中世のヨーロッパであります。

カトリックの修道僧であったルカ・パチョーリという人が、近代簿記の父だとか言われております。

ただし、彼は、ちまたで慣習的に行われていた帳簿記帳の技法を整理してまとめ、その結果を本にして出版しただけのようです。

要するに、簿記の発明者ではないということですね。

しかし、彼の書いた『ズンマ』というその本が、その後教科書みたいに使われたために、彼が簿記の生みの親みたいに扱われたということのようです。

なぜ手本とされたかというと、やはり、聖職者だったことが大きいように思われます。(これは私の想像です)

彼は著作を書く際に、ベネチアやフィレンツェなどの中世イタリアの商業都市国家で行われていた帳簿の記帳技法をそのまま記録したのではなく、
帳簿作成の際の心構えなどを盛り込み、まさに教科書として書いていますから。

実際、彼はベネチアの富裕な商人の子弟の家庭教師をつとめていたりします。

以下、『ウルフ会計史』からの引用です。

『「商人の大きな目的は、彼の資産と負債に関する情報をえることである」このような短い序文に次いで、パチョーリは第二章ですべての商人の目的は合法的かつ相当の利益を得ることにあるから、彼は常に神の御名(meser domene dio)を呼ぶことによって仕事を始め、新しい一組の帳簿を開く際には、つねに神を心に留めなければならないと述べている。』

また、以下は、テン・ハーヴェ著の『会計史』からの引用です。

『……、もし、倒産して帳簿が整理されていないと、商人は刑罰としておそらく死刑となる「詐欺破産者」と見做された。帳簿を使い始める前に、役人がその最初のページと最後のページに署名しなければならなかったし、また各ページは丁数と頭文字が記入されなければならなかった。』

インチキできないように、昔は、会計帳簿の1ページ1ページに印を付けていたみたいですね。

このように会計は、社会や日常生活にキリスト教倫理が強い影響を持っていた中世ヨーロッパで生まれたもの。

だから、会計帳簿というものは、究極的には、”神”に向かって報告するもの、という意識が原点にあったようです。

今でも、たとえば企業の経営者が敬虔なクリスチャンで、
そして、コンピュータシステムから会計帳簿の元となる「紙」が印刷されて出てきた後、
それを綴じて、製本して、最後に責任者がサインするまでの過程の中で、こういう厳しい意識で職務を遂行すれば、会計不正など出てこなくなるかもしれません...

明日は会計の歴史のウンチクとして、もう一冊、取り上げて論じてみたいと思います。





posted by スイス鉄道のように at 07:00| 東京 ☁| Comment(0) | 投資哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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